ラバリストの状況、孤独かどうか

 フェティッシュジャーナルにはたまに看過できない読者からのメールが届く。先日、HN氏から届いたメールそうである。とても考えさせられるものなので原文をほとんど変えずにみなさんにお読みいただこうと思う。ご本人の了解を得ている。
 思う所がありましてメールしました。「思い起こせば小学生の頃にまで遡ります。私は当時から他の同世代より異質な考え(天邪鬼と言うか、、視点の違い?)がありまして友達に虐められる事が多く、異端視されていました。普通の虐められっ子なら先生に目をかけて貰えそうなモノですがその先生の言葉と思いの裏側を試す様な(ヒネクレ者だな、、ぁ)子供でした。勿論友達が少ないのは当然の結果ですよね。
 その為図書室で放課後から用務員さんか先生が見回りに来るまで色んな本を読み更けてました。その時の一冊の本の内容が未だに頭から離れない内容だったのです。 本のタイトルは忘れてしまいましたが有る男の話でして、ヨーロッパ風の挿絵が入った小説で、その男の視点からの経緯の様です。
 挿絵の男は古ぼけた教会の様な祭壇の前に独り手、足、視界を何か得体の知れない様な状態で(エイリアンの映画で出てくる様なシーン)拘束されているのです。そして冒頭の文、
「ここは……、どこだ……、俺は何をしているんだ……」
から始まります。
 その男は自分の状況も経緯も名前も知らない様子なのです。そしてその男は今目覚めた事の意味も存在も解らず只蠢くだけ、やがて男の体と意識が活発となりその束縛から解放される事になったのです。
 男はとりあえず周りを確認し自分の状況を確認しようと奔走していました。しかし、其処には鏡も他の生物も見当たらないのです。
 男は不安になり人気のある所を探し求める行動にでました。やがて、町の様な所に辿り着き男は町の皆に助けを求めます。しかし周りの人達、犬猫さえも自分を避けて行くのです。男はなぜ皆誰も相手にしてくれないのか皆目検討もつかない状態で彷徨い続けます。
 何時しか雨が降り出し雨宿り場所を探して店先に辿り着いた時です。男は仰天しました。目の前の窓越しに全身が泥上に腐りおよそ人間の原型を辛うじて留めているだけの男が立っていたのです。
 男は驚愕し周りに必死に助けを求めました。しかし助けを求めても皆逃げて行ってしまうのです。
(何故誰も助けてくれないのだ?目の前に化け物がいるのに)
 何時しか周りには誰もいなくなり男は恐る恐るその化け物に近づきました。
(何故お前はそんな格好をしているのだ?お前は何者だ?)
と男は問いただす。しかし化け物は何も答えず男を見続けるだけ。
(お前も皆に相手にされない様だが俺も同じだな)
と、男は微笑みかけた。化け物も微笑み返す。
(そうか、、皆、外見だけでお前を化け物として見ているが俺はお前の外見は気にならないよ)
化け物も頷いて答える。
(どうだ?一緒に他の町でも探しにいかないか?)
男は化け物に手を差し出した。そのとき自分の手が化け物と一緒である事に気が付いた。
(何故?お前と俺は同じ手をしているんだ?)
顔を近づける。
(お前も何故顔を近づけるんだ?)
その時男は気づいた。
(これは、、俺なのか?)
そう。化け物は自分自身がガラスに映っていた姿だったのである。
(そうか、化け物は俺自身だったのか)
全てに気づいた男はその時全てを悟ったのである。
(俺のこの姿の為周りは話も中身も見ようとしてくれない、だから俺は今まで独りだったのだ)
 そう悟ると男は又自分の居た所へ戻って行った」
と、言う様な内容です。本当はもっと深い内容何ですが、子供の時の記憶なので勘弁して下さい。
 この本から何を共感したかと言うと男の容姿から一般の人達が男を異端視し、中身も見てくれない所でした。
 自分と言う姿が周りに認められず中身も見て貰えない状況、まさに私達がラバーを着て町に出たらどうなるか? と言う状況が想定出来ますよね。
 やはりラバリストと言うものは世間に認められない様な状況だとおもいます。でも私はそれでも一向に構わないと思っています。人は外見では無く中身と言う本質を教えてくれる良い教訓になっているのですから。
 乱文で申し訳ありませんでした。私のフェチの一端を受け取って頂けたら幸いです。HN
 ちょっと切なくなってしまう「男」の物語に、多感な子供時代に出会ってしまったHN氏の述懐である。
 フェティシスト特にラバリストならば、きっと多くの人がこのメールに共感できると思う。ラバリストは確かに外見は不気味である。黒光りする、濡れたような表面を持つラバーをピッチリと全身まとって歩く姿は一目見ただけで子供は泣きわめき、普通の人は青ざめて引く。その人の内面への探索を許さない、人を寄せ付けないある種の厳しさがラバリストにはあるような気がする。
 しかしラバーで全身をまとった姿が一般の人にも受け入れられる場合もある。たとえばキャットウーマンとか、スパイダーマンといったピッタリ系コスチュームが「似合う」場面において、である。人は、そういう場面でのこのコスチュームをかっこいいと評価する。
 では、単にラバーを着たいというこの私たちの欲求はなんだろう。ストーリーもなく、場面の必要性もなく、ラバーに美しさやかっこよさを感じてしまう、私たち変態の欲求。じつはそれは私たちの内面に、強い何らかの物語を抱えており、その物語がラバーへの欲求を引き起こしているといえないだろうか? ストーリーはないのではなく自分の中にあって外から見えないだけなのだ。
 もちろん、こうした内面の物語というものは誰しもが多かれ少なかれ持っているものである。ラバリストの場合はたまたま、結論やそのプロセスでラバーを必要としているに過ぎない。たまたま、それがラバーだった、たぶんそれだけの違いだと思う。
 そう考えると、ラバリストであることに必要以上に孤独感を覚える必要はないと思う。
 また、一方で、少数派のマニアの孤独にもメリットはある。同好の士と知り合ったときの親近感がそれだ。このひろい世の中で、自分と同じラバリストであるというだけで、その人への好意は高まる。孤独を癒しあうときの満足感は、一般人には得難い至福である。
Text by Tetsuya Ichikawa
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