単調な仕事と専門性

今年の秋に32歳になる筆者が最近感じている仕事についての考察。
それは毎日毎日、仕事をする以上は、先週と同じ、先月と同じ、去年と同じ、そういう単調な仕事というか作業が、年を経るごとに増えてくるということ。
この単調労働の蓄積を実感するのは、ブルーカラーの人に限ったことではないと思う。筆者も結構単調な日々のルーティンワークは多い。
で最近、たとえばプロゴルファーとか、相撲取りとか、若くても非常に努力して功なり名を遂げる人が特にスポーツの分野で多い。彼らの実績の裏には恐ろしいほどの単調でつまらない訓練の蓄積がある。人はそれを知るからこそ彼らをすごいと評価する。
どんなに単調な仕事でもずっと続けると「おっ」というふうになるって、思う。筆者の身近なケースでいうと、毎日、それもほぼ定刻、夜の8時半くらいから、キッチンの白いリノリュームの床をぴかぴかに磨き上げるというのがある。
これは毎日やらないと、すぐに汚れる。何しろキッチンである。食べ物の汁を縦横無尽に垂らす子供がいる。ダイナミックに料理する奥さんもいる。雑巾では取れないこびりつきが無数につく。専用のへらでこそぎ落とす。毎日。
もう全然楽しくない。こんなんでいいんだろうか? 人生を見つめ直す機会にすらなりうる。しかし、30年たってみてまだこのリノリュームの床がきれいだったとしたら、それって結構すごいと思う。
そろそろ筆者は、人生の半分くらいまで来た気がしている。何か決めて、続けてやろうと、そういうのが見えてきつつあることに少しほっとしている。人生一貫して続けられることって案外少ないと思う。ひとつか、せいぜいふたつだろう。もちろん床掃除とかは別にして。
で筆者の場合、その続けたいことっていうのは、授業中におしゃべりすること。なんだそりゃって思うかも知れないけれども、世の中のメインストリーム(授業する教師とそれを聞く生徒)から外れて、外れた人たちと何らかのコミュニケーションを続けたいという。ただし今の資本主義の枠(授業が行われる教室)の中での話で、教室の外には出たくない。教室の外というのは価値観が違う社会集団(宗教)、あるいは戦争などの無秩序状態みたいなのをいう。
教室の中で授業を聞かずに、好き勝手な私語をするのは本当に楽しい。相手にもよるけど。

単調な仕事と専門性” への2件のフィードバック

  1. 授業中におしゃべりの例えはうまいですね。
    しかしわたしは最近、教室にいること自体に飽き飽きしてしまっているのですがどうしたらいいのでしょう(共産主義や戦争に憧れているわけではありません)。
    登校拒否して友人の家でダベる、というのはアリなんでしょうか。

  2. それ超ありです。
    友達の家、あるいは友達を招いた自分の家で、授業そっちのけでしゃべるという概念は、同好の士が世代や職業を超えて集まるのに似ています。
    むしろ今後メインストリームを脅かすものとして出てくるでしょう。友達の家というのが。

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