惚れた相手が変態だったら

 女性は男性を好きになるにあたり、思想信条とか、知識の量、幼少時の体験、学歴、職業とかではなく、おもに第一印象や外見を重視する(ここでは結婚相手として選ぶという場合ではなく、好きになる場合に限る)。
 外見が受け入れがたければ、惚れることもない。たとえばいま人気のぺ・ヨンジュン。彼は外見がかっこいいから惚れられる。ところがじっさい彼は外国人である。したがって歴史はもとよりカルチャーも言葉も、おそらく性格も違う。しかし、女性たちはかれのそうした内面ではなく、外見に惚れる。
 すごーくかっこいい、おしゃれな恋人。ステディーな仲になって喜んでいたところ、セックスのときに見たこともないような黒光りするゴム製のスーツを取り出し、これを着てやりたいという。
 そんなとき、女性はどういう反応を示すか。
(1)一回だけだよ。といってそのときは許すが以後二度と許さない。くどいようなら振っておさらば。
(2)M女になりきって、むしろ変態傾向を甘受する
(3)M女にもなりきれず、かといって強くもいえず、無理矢理あわせる
(4)自分もラバーフェチだったのよと感激して盛り上がる
 このなかで(4)のケースというのはきわめてまれだろう。で、一番多そうな(3)。これがいちばん不幸だと思う。男は、女がわりと変態を受け入れてくれるのかなと誤解する。女は、ずっと演技し続けて苦しむことになる。
 選んだ男を容易には変えられない不幸。似た不幸に陥って苦々しい思いで過ごすある自治体の住民たちが、いる。
 普通地方公共団体、「東京都」。そのトップたる行政庁、石原都知事を選んでは見たものの、世界に向けた恥さらし発言が続く最近の変態的右傾化にすっかり嫌気している、わたしら東京都民である。
 前日のブログで彼の変態模様は読んでもらうとして、まあ今日は趣向を変えて、パートナーとか、大切な人を選ぶ場合は、よーく考えて、いろいろ調べて決断しないとダメだよっちゅう話し。
 選び間違いがいちばんの不幸の原因なんだから。しかも人間、自分のミスを認めたくないから、選んだら最後、できるだけ維持しようとする。株の損切りができなくて損がふくらむのと同じ。
 都知事の損切りは、早くしたいものである。
Text by Tetsuya Ichikawa
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石原都知事、右傾化のワケ

公立学校の式典で、日の丸君が代斉唱のときは教師に起立させることを強制して、リベラルな教職員から集団訴訟を食らっている右寄りでおなじみのわれらが都知事、石原っち。今日は彼がどうしてそんなに保守で日の丸大好きなのか、探ってみました。
 文芸春秋の最新号で発表された彼の談話「特攻と日本人」を読むと、彼は中学校くらいのときに敗戦を迎えた。戦時中は、麦畑に潜んでいたらアメリカの空爆を受けて友達が撃たれて障害者になった。わりと低空を飛んでいたから、こっちは子供だということは分かっていたはずなのに、飛行機を操縦していた米兵がおもしろ半分で掃射したことが石原少年の逆鱗に触れた。また終戦後、米兵が歩いて来たのをよけずに堂々としていたらその米兵にぶたれた。
 このふたつの体験が、アメリカに対する抜き去りがたい敵意を彼の心に芽生えさせたということで、今日、彼は騒ぎ立てて言う。「アメリカよりは僕たち日本人じゃん、だから日の丸だよ、靖国だよ、特攻隊だよ、都知事だヨ、全員集合!」こうして完全に右寄りになってしまった模様である。
 果たして、都知事という、わりと強大な権限を持つ行政庁を務める一自然人が、こんなドリフコントみたいなキャラでいいんだろうか? これじゃまるで、アメリカ嫌いの子供がそのまま大人になって、しかも権力を有している事態である。危ないよ。そういえばこの人、この民主主義国家で選挙で選ばれている。情けないと思った(幸い国政では相手にされないので一地方自治体のトップに甘んじるほかないのは彼がオトナとして政治家たちに評価されていないことの証明でもあり、その点ではまだ救いはある)。
 石原のアメリカ嫌いとそれを動機とする右傾化は途上国の内戦の理屈でよく言われる、憎しみの連鎖そのものでまさに稚拙というほかない。アメリカがひどいことをしたから、仕返しをしてやりたい。そのためには、総理はもとより、天皇にも靖国神社に参拝させて、「特攻の精神」を盛り上げ、日本国の失地回復のためにふたたび一丸となって玉砕したい、これが究極の公共事業だ、とかなんとか本音では思っているに違いない。要するに彼は、そういうキャラなのである。
 もちろん、華氏911でいみじくもムーアが、イラク戦争に賛成の上院議員に突撃インタビューし、「お宅の息子をイラクにやる気、もちろんありますよね?」と訊いたらみんな無言で去っていったのと同様、石原だって、大好きな息子、お天気おにいさんの良純君を戦争にやるかと訊かれたらどうなのか?
 きっと彼は「どんどん行けばいい」とか言いそうで、逆に恐くなってきた。
 というのも、石原は、文春の談話では、特攻隊員のなにがいいかって、若くて純粋なところ、青春の美しさとかいっている。彼ら特攻隊員は決して天皇のため、国のために死んだんじゃなく、家族やふるさとの美しさのために死んだと石原は考えている(そんなバカな、命令が来て逆らえずに死んだ、その命令を出した仕組み、システム、そのへんの反省はどこへ?)。そんな純粋さを、僕たち日本人は特攻隊員から学んで、取り戻そうよとでもいいたいのだろうが、実際はそうではなくて、冒頭から繰り返すように、アメリカ人に蹂躙された自分のトラウマを何とかしたいだけだ。その証拠に、談話では、自分は戦争翼賛でも、反戦でもないといっている。じゃあなんだといったら、石原チン太郎自身のもつトラウマの治癒以外にありそうな理由は残っていない。
 トラウマってけっこう根が深くその人の人生を左右し続ける。石原は、特攻隊員に飯を作ったある食堂の経営者のおばちゃんに、国民栄誉賞をあげてはどうかと時の宮沢総理に進言したら、一笑に付された。その後の宮沢の挫折についてヤツ(宮沢)には「バチがあたった」などと論評。「バチ」ってあなた。完全に常軌を逸した、変態の言動とでもいうほかない。
 そう、トラウマのせいで変態になるんです、ヒトは。私だってそう。いろんなトラウマがあります。石原もトラウマ。ヒトラーもトラウマ。シリアルキラーもトラウマ。へんな、偏ったエネルギーを発散しているヒトはみーんなトラウマ。
 ものすごいエネルギーです。
 だから、こういう変態が騒ぐ憲法改正、これだけはみんな絶対に反対しようね(ケッまたかと言わないで!)。彼らは憲法なんて見ていやしない。憲法のケの字も知らないし知ろうとしない。何てったって、彼らにとって憲法はだいっ嫌いなアメリカの「押しつけ」だから。
 でも、僕たちにとってのアメリカは、決しておもしろ半分に機銃掃射したり、歩いているからと言って少年を殴ったりするようなヒトじゃない。時代は変わりましたよ。少なくとも筆者の知る個人的アメリカ人は、イーオンのティーチャー、ブライアン……僕はキミを忘れない。ファイルを忘れて取りに行こうとしたら、いいよ、いいよと言ってくれたね。拙い英語で話しても、すごくていねいにネタを拾ってくれたよね。愉快で知的な、リベラルなブライアン。(それだけで)大好き、アメリカ、星条旗万歳。
 そんな大好きなアメリカの作ってくれた憲法なんだもの、大事にしなきゃねって私は思うわけですよ。トラウマ野郎のこども都知事石原さんとは違ってね。
 まともなオトナなら、もう動き出している、いまのこの国のバカげた右傾化に抗うために。
Text by Tetsuya Ichikawa
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あっ!バッカが見るー

 小学校の頃、「あっ!あれ見て!」と友達が指さすほうをあわててみたら「バッカが見るー」と言われたことは、ありませんかね? そんときのむなしさ。人類は、文化芸術作り出すけど、こんなのも作り出すんだなー、なんてね。
 「金スマ」とういTBSのバラエティ番組で、6歳の小児ガンの子供を亡くしたヒトの再現ドラマをやっていたけれども、どうなんでしょうねこういうのは。悲しげな音楽と、深刻なナレーションがかかるVTRをスタジオで観るのは、スマップの中居とか、わけのワカラン安いタレントだとか、あとは頭のなかが空っぽの若い女性ばかり数十人。Vの合間に泣いている様子が挟まれたりしてね。ゲストが泣いている映像を小さく見せるのは、視聴者たるこちら側も、こういうふうに泣けっていう規範のつもりですか、なんだか偉そうだな。でもそれにしてはCMが多すぎてね。それに洗剤やら、クルマやら、金貸しのコマーシャルの合間に、子供がガンで死ぬ姿をネタにして差し出した親というのは、いったいいくらもらってるのやら。神経を疑う。テレビ業界に親戚でもいるのだろうか?
 ヒト(というか究極的には自分)の不幸をこれほど露骨にネタにしていいんだろうかと思ったよ。しかも免許事業たるTV放送において。もちろんCMを見せるためにこういう「ネタ」を放映しているけれど、このネタの部分が近年どんどんえげつなくなっている気がする。
 「あっ」と言って、視聴者の関心をテレビ画面に釘付けにしておいて、サッとコマーシャルを見せる。その「あっ」が、金スマならこうした不幸とか、他人の尋常ならぬ成功と挫折とか、危険とか、恐怖とかであるわけで。これ普段から高視聴率らしいけど、観ている人の日常はよほど退屈なのかな。もちろん私は観ませんが。
 さて、件(くだん)の子供が絶命したあとに、CMが流れると、ホント「バカがみるー」と言われてがっくりした小学校時代をふと思い出した。なーんだ、みたいな。指さす方向にはいつも何もなかった。昔も、いまも。だからテレビのなかでの子供の死も、一瞬にして指さす方向、すなわちもともと何もない=虚無へと追いやられてしまう。「バカ」と一緒に。それがワカランアホなネタ提供者よ、子供もろとも虚無へ去れ。それともそれがあなたなりのとむらいの仕方? だったらいいんだけど。
Text by Tetsuya Ichikawa
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ドール用キャットスーツ販売終了

 Alt-fetish.comでは京都の玩具メーカーボークス社のフィギュア「ドルフィードリーム」「スーパードルフィー」「スーパードルフィー13」用に、キャットスーツを販売してきたが、9/27をもってひっそりと終了した。
 ひっそりという表現に示されるように、この商品はほとんど売れなかった。敗因としては、キャットスーツへのフェティシズムにおいては、フェティシストは人形に着せるより、自分が着て人形化したいのである。
 今後も、引き続いてまだ自分が着る喜びに目覚めていない、人形好きのヒトには余地があると見ている。イベントなどにはべつのかたちで参加するかも知れない。はじめてキャットスーツを知って、人形に着せるくらいなら自分も着よう、お、案外いいじゃん、それで人形とはおさらばして自分の身体をあれこれかえりみるようになれば、けっこういいんじゃないか。
 そういうわけで、いわゆるオタクのみなさんへの直球なアピールはおそらくAlt-fetish.comとしては今後、当面ないだろうと思われる。結局オタクとフェティシストというのは微妙にずれてて違うことが分かった。Alt-fetish.comみたいな外国産のフェチはオタクにはピンと来ないようなのである。
Text by Tetsuya Ichikawa
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出版業界はこうして生き延びる

 毎日書かさずチェックしている大好きなChikaさんのブログShrimp headが、乗っているブログを運営しているMy profileのシステム作業かなんかでまったく見られない状態になって先日あわてた。ココログにShrimp head Mというミラーサイトがある(ある、というかchikaさんがミラーサイトとしてやっている)のでそちらを見つけてホッとした。読みたいものを読むには、パソを起ちあげて、ブラウザをたちあげ、サイトにアクセスしてはじめて読める(がサーバーがダウンしたら読めない)という、デジタルメディアの脆さを思った。今日のテーマ、紙媒体なら、机の上、書店、物理的にどこかしらに行けば必ずあるというのは、デジタルにはない安心感である。
 さて私は出版業界が好きで、書店、雑誌、本、アマゾン、すべて大好きだ。少なくとも洗剤やクルマよりは。婦人服よりは。オーデコロンや育毛剤よりは。これらより、本が好きである(出版社で仕事したこともあるけど、仕事よりやっぱり本が好き)。もちろん、ほかの趣味である釣りやら旅行、また同じ本でも実用書や趣味の合わない小説、わけのワカラン不幸陳列本(障害者、病死する子供、一般人の不幸、痴呆などあえて本にして販売するのがあまりにもえげつなく反吐が出るジャンル)、エロ本などはあまり好きではない。
 ではどんな本が好きかというと……。お見合いの場で、再現してみよう。
「市川さんはどんな本をお読みになられるのですか?」
「村上春樹とか、太宰とか三島とか。いま読んでるのはヴェブレンの有閑階級の理論です。」(声がどんどん小さくなる)
「は?」
「いや、なんでもないです。まあ建築関係の雑誌とか、実用書とかですかね、ははは」
 私の読書についての「ご趣味」はおいておくとして、今日は薔薇族が廃刊になったことを受けて、果たして出版ビジネスはどうなっちまうんだということ、つまり紙媒体の現在過去未来を考えてみたい。
 HOTWIRED JAPANの記事「デジタル時代、出版業界が生き残る方策は?」によると従来の出版・印刷業会が生き残る方法のひとつは「デジタル媒体サービスの提供」だという。
 ところが今日、こうしたサービスを提供しているのは、専門のコンテンツ会社(サイバードやインデックス)とか携帯電話会社である。従来の出版、印刷業界はすでに電子サービスの提供というイス取りゲームにおいて、すっかり後陣を喫した。
 それでも同記事は「大量送付されるダイレクトメールが人の目に触れる可能性は、たとえゴミ箱からはみ出している状態でだとしても、フィルターで簡単に排除されてしまうスパムメールよりも高い」と、あるコンサルタントの意見を紹介している。デジタル媒体サービスよりも、やはり従来通り、紙になにかを印刷して、すでに整った流通機構を通じて流していたほうがいいんじゃないかと示唆している。
 紙媒体がデジタル媒体を凌ぐ優位性は、まだまだあると見ている。たとえばドライアイ。CRTとか液晶といったモニタ、外部表示装置というのは実に目が疲れる。筆者のような神経症タイプなら、集中力がすぐ途切れて瞬きパチパチ。おかげでドライアイとは無縁だけれど、妻は一切瞬きをしないため、30分とたたず目が疲れる。また、日本でもソニーとか東芝(だったけな)が開発した、デジタルコンテンツを読むいわゆる「電子ブックリーダー」をビックカメラで見たけど、悪い冗談にしか思えない代物だった。重くて、価格も超高く、これで本を読んでいたら単なる笑い者かバカにしか見られないだろう。
 それに、最近、アメリカで興味深いニュースがあった。ネットで無料で見られる政府刊行物『9.11委員会報告書』を、ペーパーバックにして販売したらベストセラーになったというのだ。HOTWIRED JAPANの記事では「9.11委員会のウェブサイトにアクセスして報告書をダウンロードする作業よりも、10ドル程度を支払って書籍版を購入することを選んだ人は、60万人以上を数える。」と述べている
 じつは閑職に追い立てられた頃に筆者が楽しみだったのは、ネットでこれはと思うテキストを、お気に入りのエディタに貼り付けて、社内のハイエンドプリンターが備える驚愕の機能「両面小冊子」で印刷して昼休みや会社帰りに読むことだった。
 しかしいまや毎日忙しくてこんなことをしている暇はない。それに、『9.11委員会報告書』のケースと同様、いちいちプリントアウトするのは結構面倒だし、コピー用紙にレーザープリンターで打ち出された「MS明朝」の文字も決して美しいとはいえない。
 また、電子ブックも今ひとつである。PalmのPDAでロビンソン・クルーソーを読んだことがあるが、味わい深い「読書体験」とはほど遠かった。なんだかほぞをかむような……。
 そう、ものを読むなら人間、やっぱり本なのだ。これはあらゆるPDA端末、電子ブック、そしてPCからプリンター出力など、本以外の電子媒体や紙の印刷物を試してきた私の体験的結論である。
 今日のタイトル「出版業界はこうして生き延びる」の答え、それは私のような本好きがいる限りは、大丈夫ということだ。
Text by Tetsuya Ichikawa
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ビザールダイビング(読者レポート) 

ラバーキャットスーツのリアルプレイヤー、晃子氏が例によって素晴らしいリポートを送ってくれた。ラバリストたちの秋の夜長を、ビザールな性欲の大海原に変えるのは、彼女の体験を自分の体験のように脳にインストールしたもののみ。さあ、いっしょに潜ろう、深く深く潜行しよう。ビザールダイビングへ、いざ。
*
 ラバーCatSuitを着てガーター付きコルセットでウエストを目一杯締め上げて、ラバーストッキングを着けた上から編み上げ超ロングブーツを履き(当然一番下には2穴攻めラバーTバックショーツを忘れずに)、いよいよトキメキの顔面拘束へ・・・・まずはノーマルタイプのマスクを着けて、更に口無しマスクを重ねて被り、眼の部分にスモークレンズのスイミングゴーグルを着けて最後にガスマスクを装着して、グローブを嵌めて完成です。限りなく外気に触れる面積は0に近くなり、まさにラバー製の異様なオブジェに成り果てた自分に前後不覚に陥ってしまいました(恥)。……黒いシートをひいた即席ラバーベッドに静かに横たわり、マゾヒスティックな妄想と、絶え間無く続くラバーの愛撫と容赦無い責めに身を任せました。剃毛した性器にラバーのTバックを纏うとクッションになる性毛が無い分ダイレクトに、冷たいラバーが例え様の無い質感で吸い付いて来ます。二本のディルドを慎重に体内に挿入してキャットスーツを着てファスナーを閉じてしまえば、更に密着度と密閉度は強くなり、無毛の性器を押し広げられ、クリトリスを圧迫され続ける感覚は、挿入とクンニリングスを同時に施されている様です。通気性が無いので、何時しか私の身体はドロドロに溶けた半流動体になって、ラバーの中に密封された様な錯覚に異常な興奮を覚え、悶絶してしまいました。3重に覆い尽くされたマスクの下から漏れる、微かな喘ぎ声と細い呼吸音。そして僅かにうごめく身体だけが生身の証でした。
*
 ふと思った。ラバーは確かに、固体のような外観を呈している。しかし、晃子さんのリポートを見ると、まるで自分の体液とラバーが、溶け合って交ざってしまっているかのようだ。それほどまでにラバーとの一体感が感じられる。ラバーという素材は、じつに甘美だ。固体のくせして、液体のように、ねっとりと皮膚にまとわりついてくる。もちろん、圧倒的な匂いは、嗅覚を犯す。つまり物質のすべての様態に自在に姿を変え、あるいはすべての様態に同時に変化して、私たちのアイデンティティーの深いところへ干渉してくる。
 ああ、いっそのことラバーと溶け合ってしまいたい。
ここで晃子さんから注意事項が。
1.鼻の穴は必ず開けて置く事。マスクの重ね着けするとメンドクサイけど、最終的に鼻でしか呼吸出来ません。
2.動き回らず静かに愉しむ事。当然、呼吸は浅く細くなりがちです。動き回ると酸欠の危険が有ります。
3.あまり長時間のプレイは身体への負担が大きいです。短時間の方が楽!?
4.もっと手軽に色々したい人は、外見的な雰囲気はあまり変わりませんので、口開きマスク+ガスマスクが無難かな。
5.「苦しい!?」と思ったら、即プレイ中断する事。相手が居る場合は前もってGive upの合図を決めておく。
 ビザールダイビングにもルールがある。ルールを守れる人だけが、究極の美しさに触れることができる。
 晃子さんのこのテキストに触発されて私も昨日の深夜(今日の早朝)やってしまった、ラバープレイを。もちろんひとりで。
 本当は風邪気味で、ラバーを着るのはとてもおっくうで、直前まで迷っていたけれど、いざスーツを着たらもう止まらない。ブーツ、ハーネス、ブーツ、コルセット、グローブ、マスクと、ひとつひとつのアイテムを身に着けるごとに興奮は高まっていく。
 全部身に着けたあとに、全身を映す鏡の前に起ってもうダメ。エロ過ぎる。しばらくは汗が出るに任せて、全身の皮膚が、ラバーと汗がいい感じにネチャネチャになるのを味わう。そして、おもむろにまたのジッパーを開けて……。あれ、昨日見つけた前立腺ボタンがない……。どうして?! まあいいや。ペニスそのものよりも、なぜだかキ○○マの袋のほうが感じる私。それも爪でそーっとしたりこちょこちょとしたり。ラバーを着ているのと着ていないのとでは、同じ感じる場所への刺激もまったく異なるから不思議だ。全身状態を大脳が評価して快感物質を分泌させているんだろう。
 すっかり夜は涼しくなってきて、ラバープレイにはピッタリである。サイトではイタリアのラバードールのページをフェティッシュサイトディレクトリに加えたのでどうぞお越し下さい。教えてくれたY様、ありがとうございました。
Text by Tetsuya Ichikawa
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ケツにヘンな突起を発見、押すと気持ちいい

 ここ2週間以内に、3万円以下のOAチェアを3っつ買った、市川哲也です。もちろん自分のために。しかし、ケツはふたつに割れているとはいえ、ひとつであることに変わりない。三つもイスがあっても、余ってしまう。
 ではなんで3つも買ったかって? しっくりくるのが見つからなかったからさ。ネットで安くて、クレジットカード決済だったからつい連続衝動買いしちった。
 メーカー名を上げると、ロアス、サンワサプライ、シグマアポ。ビッグカメラにいって座ってみて型番とメーカー名を暗記し、ネットで型番を引いてもっとも安い店から買うんですわ。
 サンワサプライは、なんといっても座面が低反発ウレタンであることにホロリと来て「ワンクリックで」お買いあげ。座りもせず。
 着いて組み立てて座ってみると、座面が高い。それに、なんだかしっくりこない。腰や背中のホールドが。だめだ。母親にくれてやった。
 次。ビックカメラに行って座りまくって決めたロアス。これまた届いてビックリ。膝に近い方の腿を下からギュー。鬱血。ビックカメラでは、サンワサプライでダメだったホールド感だけを重視した結果、見落としていたチェック項目「腿の下部鬱血」である。しかしそんなんありかと思う。これもダメだ。ロアス処刑。背と肘掛けを外して、オットマンにしてやった。ザマあみろだ。
 そして、いま座っているこのイス。シグマアポのヤツ。3度目の正直。ホールド感、そして腿の下部の鬱血なし。座面もとても低くて私好み。座面が前傾して見えるほどだからとにかくひざ下がラク(人による)。
 シグマアポは思いっきり倒して、足をロアスのオットマンに載せると極楽、飛行機のビジネスクラス並である。あーうっとりご満悦。
 ふと、全裸でシグマアポに座り、ロアスのオットマンに足を載せていたらなぜか肛門の様子を見たくなったので、全身が映る鏡を前方において、見てみた。足をオットマンから離し、高く上げる。そう、よくポルノ女優がやっている、太股に手を添えて股のあいだからこちらを見るような姿である。
 それは、肛門と思われる穴の1~2センチくらい上にあった。小さな黒い「ポチ」が肛門の上方にひとつ、見えるのである。まるで肛門の上方に小さなボタンが付いているようだ。触ると突起状になっていてなぜだか超気持ちイイ。IBMのノートパソコンのポインティングディバイスが小さくなったような。女のクリトリスのような。この感覚から推測するに、前立腺であることはまちがいない。筆者の場合は(他人とかヒト一般の話は知りません)、どうやら前立腺がボタン状に外に飛び出ているようだ。ケツの穴に手を入れて内側からやらなくても、上からやれるんだからきれいなうえに超便利。この「コリコリ」感がまるでクリトリス。
 しかし、これはもしかして(つまり前立腺の、外部への突出)は女になりかけたものの結局は何らかの都合(ミス?)により男として生まれた筆者固有の、先天的奇形ではないか? だとしたらうれしすぎる奇形だ。この小さなボタンを押すだけで女の気持ちが味わえるんだから。それにこの奇形こそ、筆者が変態であることの由来なのではないか? 
 そういえば、エッチを異性とはじめてからこの方、不思議と挿入だけでは物足りなくて、肛門のほうがむずむずと「欲しがる」感じがあったものだ。きっとこの突起が欲しがっていたんだろう。あはは(照)。女性だって、挿入されただけでは物足りなくて、クリトリスをしてもらいたいことがあるわけだが、それと同じだ。
 というわけで、イスを三つ買って判った、生まれて32年間気づくことがなかった小さな奇形を発見してひとり悦ぶ私であった。
 さてみなさん。「私も突起ある」というヒト、教えてください。奇形じゃなくて普通のことかも知れないんで。場所は肛門の1~2センチ上方(腹側)です。私のように足を高く上げて、股を思いっきり開いて、ケツの割れ目も開いてみないと、突起状にはならないかも知れません。明るい場所で見てください。また触るとぽこっと出ているのですぐ判る。あーどきどき。
【きょうの祈り】
みなさんがこのケツの突起を捜索中に北朝鮮がテポドンを発射しませんように。火の海になって、なぜかケツばかり火傷している男性日本人の死体が大量に見つかったら、極右の石原都知事とか読売ナベツネが大好きな「日の丸ニッポン」の「権威」やらごたいそうな「プライド」も台無しだよ。もちろん、そんな破廉恥な国は常任理事国入りも無理だろうしね。
Text by Tetsuya Ichikawa
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雑誌「薔薇族」が廃刊

 私は発行人の伊藤文学さんと会ったことがある。文学風情ただよういかにも版元経営者という感じの知的なおじ(い)さんだった。この人の書いた本も読んだ(文春ネスコから出たホンで題名不詳)。
 文通の取り次ぎをしていた十年以上前がけっこう盛況だったようで、現代の出会い系にその機能を譲ったということだろう。ネットの隆盛とともに部数は低迷したという。
 雑誌そのものは分厚くて、古色蒼然としていてフェチとは相容れないものを感じた。同性愛とはいえ、フェティシズムとはどうしてもターゲットが異なること、そして、その手の性的ジャンルに属しながら、フェチはそれでも少数派であることをうっすらと感じて寂しかったのを覚えている(ゲイだからといって、フェチとは限らない。ただしフェチにはゲイが多いというのが私の印象である)。
 伊藤さんは、廃刊の理由を「インターネットや携帯サイトが普及したことや、雑誌を扱う小規模書店が相次いで閉店したことなどで部数が落ち込んだ」(日経新聞)からといっているようだけれども、問題は、どうしてネットや携帯に、紙メディアたる薔薇族が負けてしまったのか、である。
 昔雑誌作りに携わっていた者からいうと、紙メディア、出版事業は、もちろん部数がすべてだ。部数がないと広告すら取れない。分かり切ったことだが、紙メディアとして出す以上、紙メディアでなければならない理由というのが必要だ。それはひとつはグラビア印刷に代表される、美しく紙に印刷されたビジュアルの力を最大限に利用して、読者に特定のテーマを訴えることである。それを抜きにしてはたぶん紙メディアは厳しい。
 もちろん、出版不況ではネットに消費者の時間を奪われて、パイが縮小している、これは間違いないことだ。Alt-fetish.comでは、MARQUISの定期刊行物、MARQUIS(年4冊)と、ヘヴィー・ラバー・マガジン(年3冊)を正規輸入しているがこの紙メディアの売上高は月を追うごとに下降線をたどっている。
 一方それとは正比例するように伸びているのがキャットスーツやら、ラバピカのような、実際にフェティシズムを自分で身に着けてプレイで楽しむためのアイテムたちだ。
 フェティシストにとっては、雑誌やらビデオは別になくてはならないものではないけれども、こうしたコスチュームは、一度味をしめてしまうと欠かせないし、どんどん欲しくなるものだと思う。筆者が現にそうだった。最初のラバーキャットスーツはRCJに作ってもらった黒の、バックジッパーのヤツだった。これを皮切りに、あらゆるフェティッシュアイテムがどんどん増えている。
 これらのフェティッシュコスチュームは、雑誌とかビデオと違って、着れば確実におちんちんが反応する。もう当たりはずれがない。効果てきめんだ。結局フェティシストの目標というのは、自己を肉体的に悦ばせるプレイへと収れんしていく。
 そして、薔薇族の愛読者たちもまた、プレイ相手さえ見つかればそれでもう十分で、雑誌は用済みとなることは容易に想像できる。薔薇族の耽美系のイラストや写真はネットでただでいくらでも見つけられる。金を払ってまでこんな雑誌を買う理由は、今日ほとんど見いだされない。
 こうした紙メディアの構造不況にあっても、まだまだ紙メディアならではの力は残されている。ネットは自分で探しに行かないとダメだけれども、雑誌は「日夜そればっかり考えている偏執狂的」編集者が、こちらの期待を上回るネタを用意してくれる。ネットだと、探しても探してもピンとくるものに出会えないし、誰かが結局更新しないとすぐに見るべきものは一巡して枯渇する。その点雑誌のような「予算をかけられる」メディアが定期的に新しいコンテンツを創出する力が重要になってくる。MARQUISも最新号で胸躍るような美しいマスミ・マックスをピーターが撮り下ろしていたが、このクォリティの、しかも超専門的なビジュアルをネットで見ようと思ったらクレジットカードをどっか海外のサイトに登録しなければならないことだろう。
 薔薇族が廃刊になった理由のひとつは、酷な見方だがこうした紙メディアの機能を、もうご高齢の伊藤先生が果たしきれなくなったこともあるかも知れない。同性愛者が姿を消したわけではない。むしろ増えているんじゃないかと思う。果たして読者の要求に十分こたえるコンテンツを、毎月伊藤先生が発表し続けることができていたか。
 力のあるカメラマン、見応えのあるモデルを使って、ユニークな企画でビジュアルを提供できなければ、どんなジャンルの雑誌だろうがつぶれるだろう。まあそれをやるにはとんでもないカネが必要になる。雑誌は一回一回が勝負。読者を裏切らないクオリティを維持し、市場での存在感をアピールできないと、退場あるのみだ。
 MARQUISやヘヴィー・ラバー・マガジンは、英語、フランス語、ドイツ語の3カ国語バージョンが世界中に出回っていて、非常にマニアックにもかかわらず数万規模の発行部数を確保している。だから当面つぶれることはないが、ひとつ心配なのは、この雑誌もやはりMARQUISのピーターというカリスマ的なフェティシストあってのこと。彼も寄る年波に勝てない。そう、後継者選びが喫緊の課題として射程範囲に入っている時期だ。
 さてそれにしても、私らフェティシストにとっては、紙媒体、ネット、それらいずれにも負けないリアルな対象、ブーツのシーズンがはじまっている。日常生活を送っていてふと目に留まるリアルな対象、女がはくブーツ、ブーツ姿の通りすがりの女。これがいちばん心を惹かれるものである。いくら、真っ昼間で、スーツとか着て、部下も引き連れて、車なんか運転して、タバコまで吸って、まともふうに、平静を装っていたとしても、ブーツ女が現れたら最後、うちらはひとりの変態フェティシストの自分へと引き戻されるのである。そして夜、こんな格好を懲りずにしてみたくなる。
Text by Tetsuya Ichikawa
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モティベーションを上げる仕事術「逃避法」

 私は基本的にはこんな格好をしてボーっと過ごしたり、変なことに没頭していたい。
 ところが実際は勤労と納税の義務を遂行するためにあれこれやらなければならないことに時間を使う必要がある。
 仕事とか。家事とか。細かい手続きとか。郵送しなければならない書類の作成および投函とか。ボケ防止のために励む資格取得試験対策の暗記作業とか。
 でもやる気が起こらなくて困ることがある。時間がどんどん過ぎていくが、成果出ず、義務果たせず、「留保」な時が過ぎていく。
 そんなときの強引なワザを今日はみなさんにご紹介したいと思う。みなさんもやる気が起こらないときはあるはずだ。取りかかれば早い、やればできるんだけれど、ああそれは判っているんだけど、最初のイッ挙手が、どうしてもでない、そういうやらねばならないことの不作為に、どう対処するか。
 不作為(やるべきこととかやると期待されていることやら、動作一般を、しないこと)の特効薬はモティベーションの向上である。モティベーション、すなわちやる気が出れば、不作為は一掃できる。
 やる気を出す画期的な方法、それは、私が名付けるところの、「逃避法」だ!
 よく、やるべきことがある人は、やるべきリストを紙に書き出して優先順位を付けて重要度の高いものからやってみろという。また、非常に長期にわたる大プロジェクトのような仕事に最初に取りかかるときは、そのプロジェクトの巨大さのあまりやる気が起こらないものだが、プロジェクトを可能な限り細かい仕事に分けてこなせばできるという。
 しかし私の提唱する逃避法ではそんな面倒くさい複雑なプロセスは不要だ。
 逃避法は、学生時代に試験前に、部屋の整理や掃除が、試験前になると異様にはかどることに注目して編み出された。
 試験勉強(ジョブA)がイヤだから、掃除整頓(ジョブB)に逃避してしまう、そういう人は少なくないはず。もちろん、掃除ではなくマンガ(とかゲーム)に逃避した人もいるかも知れないが、漫画(ゲーム)が身近にあったことが残念でしたという感じである。
 試験前の掃除はなんだか後ろめたい。ところが勉強も掃除も、じつはやらねばならないことであることに変わりはない。やればそれなりの成果が得られる。だったら、やればいいじゃん。そのほうが精神安定上健康だし、掃除をしてリフレッシュすれば試験勉強だってはかどる。親だってきれいに部屋を掃除しているのを不快には思わないだろう。
 社会人の仕事に応用する逃避法は、試験勉強をたとえば数日後のプレゼンの資料作成、掃除を交通費の明細書書きといった感じにする。で、どうするかというと、プレゼン準備をしていて、飽きたら精算書書き、そしてまた飽きたらプレゼン準備と、次々に、相互のジョブへ逃避する。
 こうした伝統的な「仕事術」とはちょっと違う私の提案する「逃避法」とは、優先順位は振らず、やるべきことをいくつも並行して持って、あれをやったかと思えばこれをやる、みたいにあらゆるやるべきことを同列に扱い、サッサッと飽きるにしたがって、別のやるべきことに取りかかる方法である。飽きたら別のことに取りかかるところが、「優先順位法」とか、「細分法」と違う。何しろ、一度Aという仕事に取りかかっても、終わろうが終わるまいがBという別の仕事に取りかかってしまうんだからもう、端から見ると私は、無秩序で、アホで、落ち着きのない、他動性衝動のような、教室内をうろつく小学生のような、そういう感じである。
 このやり方のいいところは、「やる気」がつねにリフレッシュされて持続する点だ。
 ただ注意しないといけないのは、逃避先にレジャーとか娯楽、単なる休憩を入れるとダメと言うこと。そういうのを入れると、生産的逃避の連鎖が崩れ、二度と生産性の高いジョブへ戻れなくなる。そんなの逃避にならないと思っちゃうから。
 生産的逃避先は、自分でも多少は楽しめたり、あるいは意義のあることを、できるだけたくさん用意する。用意するというのは、ちょこっとずつ取りかかっておくという意味。プレゼン作成なら、パソコンを立ち上げてワードを立ち上げてファイル名を付けてとりあえず保存する。白紙でいいから。英語の勉強なら教材を開いておく。幸い、世の中には仕事上でも、また仕事に役立つ勉強のネタでも、あらゆる「逃避先」であふれかえっている。
 ボッーッとしたら何も終わらないけれども、何でもいいから、ちょっとずつかじっていけばいつかは終わる、そういうようなもんです。もう一個、注意して欲しいが、緊張感があまりない方法なので、ミスが起こりやすい。これは注意したほうがいい。もっとも、ミスが起こってもいいからとにかくこなす拙速主義が必要なジョブもあるだろうから、必要に応じて。
 私のような、集中力の欠けた人にまさにふさわしい、そういうやり方のご紹介であった。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com

プラヴダを探して

 黒のロングブーツ、黒のブラ、黒のビキニパンツをはいて、ハーレーにまたがる長髪の美女キャラ、プラヴダPRAVDA。60年代のパリでカルト的人気を博したアーティスト、ギ・ペラートのポップアート・コミックのキャラクターである。ONE表参道 セリーヌ ブティックでプラヴダを探してというエキシビジョンをやっている
 1960年代に多感な青春期を過ごした若者が愛したこのキャラクター。その強そうで、ヴァンプな外観は、私たちフェティシストのストライクゾーンに見事にはまるのではないか? この手のキャラの延長にしか、結局Alt-fetish.comのフェティシズムは存在し得ない。Alt-fetish.comでもこうした「強キャラ」をアンナというイラストキャラに託して発表している。
 この手の女に対する視線は、同一化願望のほうが、ヤリたいというのよりも強い。つまりプラヴダのような格好をして、奔放な人生を謳歌したいなーって。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com

憲法を変えるのは愚の骨頂

 ニュースによると衆参両院の憲法調査会(そんなもんを作っていること自体がうさんくさい)は「憲法は改正すべきだ」という「考え」を最終報告書(法的拘束力なし)に盛り込むことにしたという。
 憲法改正ではまず憲法の役割に対する深い理解が欠かせない。
 いまの日本国憲法はアメリカがつくったものを和訳した。占領軍は、戦時中に、たくさんの日本の民衆がアホな為政者、軍部にいいようにされたことにかんがみ、為政者が国民の権利を勝手に侵害できないよう、この憲法を最高法規としておいた。条例とか規則、省令、内閣府令といろいろな法令があるけれども、そういうものとは比較にならないくらいに重要な法律、それが憲法だ。もちろん、国民の権利を侵害するもっとも顕著な機会、戦争には一切関与しないということも書いてある。
 戦争しないことには、または子供がどんどん産まれないことには、資本主義というのは基本的に行き詰まるようになっている。だから財界は政治家と結託して戦争できるようさかんにやっている。
 会報ナベツネ(公称読売新聞)をみれば、財界の息のかかったきな臭い極右の論調がどんなものか、たちどころに理解できる。このあいだも、自衛隊のどっかの演習を記者が見てきて、一面に「自衛隊の存在感を示さねばならない」などと結論。こんな大規模なメディアがなんてことをと、筆者はぞっとした。
 もちろん、筆者だって資本主義の恩恵なくして生きていけない(共産主義やらほかのへんな制度はまっぴらごめん)。そうは言っても、いまの為政者や大規模資本の連中の右傾化は不愉快だし危険なものを感じる。せっかくこの、敗戦国にもかかわらず今のところ努力してまあまあなポジショニングに着けてるんだから、ここら辺で、右にも左にも寄らず、環境とか平和とかでお茶を濁しつつ押しとどまればいいと思う。
 国民のみなさん(公務員や国会議員ではない人たち)は間違っても改正に賛成してはいけない。私が思うに憲法は資本主義の利害の影響を少しでも受けるべきではない。それなのに「時代とともに変わるべき」とかいって、自分勝手な都合で変えようとしているのがいまの政府与党である。憲法改正には国民投票が実施され過半数の賛成が必要なので、そこで絶対に反対しないとダメだ。いまメディアおよび政府与党が、必死こいて国民の世論を右へ右へと洗脳しているけれども、それもこれもこの国民投票を睨んでの長期の戦略である。
 これは子供が産まれず、成長も見込めないと長期的に危機感を感じている連中(金持ち高齢者)の意図的な戦略にほかならない。何度も何度もこの変態ブログで訴えていることだが、とにかくみなさんはもっともっと賢くならんと、そしてこういうことに時間を費やさないと、どんどん、変な方向、自分に不利な方向へと制度を変えられてしまう。
Text by Tetsuya Ichikawa
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老化とたたかうには

 NHKスペシャルで老化を防ぐ特集をやっていた。要点をまとめると、
・老化を防ぐには前頭葉を使うといい(次々新しい目標に向かって学習や勉強に取り組むなど)
・老化を防ぐにはカロリー摂取を控えめにするのがいい(体重が減るほどではなく、20代の体重を維持するイメージで)
 なかなかできそうで、できないと思った。でもできないとなると、細胞のなかの活性酸素が増えてガンやら老化やらで結局寿命を縮めることになる。
 人間長期的な目標に取り組むのは苦手なものだけれど、短期より長期の目標のほうが得られるものは大きい。何しろ時間をかけられるわけだから。
 私が取り組んでいる長期目標は何だろうね。変態ホテルの経営だね。もちろん会員制の。
Text by Tetsuya Ichikawa
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M・ムーアのボーリング・フォー・コロンバインを観る

 アメリカはとんでもない金持ちが貧乏人を徹底的に搾取する、イカれた国だっていうことがあらためて追認できた。日本もはじまっている経済格差。しかしアメリカは日本の比じゃない。猛烈でえげつない(この映画では銃推進派の金持ちぶりと、銃の被害者となる貧困層の対比などがえぐく描かれる)。ここんところドキュメンタリー映画が話題だが、この作品をはじめ、同監督の華氏911や、スーパーサイズミー(マックを30日間食い続ける)などおもしろいドキュメンタリーが続けて登場していることが人々のドキュメントへの関心に火をつけている。映画ビジネスが見つけた新しい市場、ドキュメンタリー。なんといってもそれがおもしろいということが重要だ。人々の好奇心を刺激し、しばし日常を忘れさせてくれるエンタテインメント産業らしく、仮にドキュメンタリーであったとしても、貧乏対金持ちという伝統的な対立の構図をネタに使った点ではハリウッドのSFX超大作物と変わりない。何か現実の事象(もちろん架空の事象でもよい)に、「差」を見つけだす(作り出す)。そしてその差が相互に利害相反していることにする。バチバチと火花。あとは誰が撮っても同じといっていいくらいおもしろい作品に仕上がりそうだ。
 さてこの日本ではどのような「差」がネタに使えそうかしら。たとえば───。
 日本道路公団の歴代総裁と、国民とのあいだの、「公金」に対する考え方の「差」。このまえのNHKスペシャルでは歴代総裁が、不採算道路を造って積み重なった借金についてどう思うかとインタビューされこう答えていたのが「おもしろかった」。ある総裁は「国からとにかく作れといわれる。我々の仕事は、後世に残る事業を成し遂げること」「採算など考える余地はなかった」。作れといったのは建設省とか、政治家である。もちろんそういう奴らをそういう方向へ持っていくのは地方の土建屋とかゼネコンだ。NHKは土建屋はもちろん、土建屋に使われる現場の労働者の方々まではカメラで追っていない。そこまで追えば一級のエンターテインメントに仕上がろう。
 ほかに思い浮かぶのは、人名漢字で最近流行の「斗」という漢字を子どもの名前に「平気で」つける親の平均年収と、そういう流行の字はあえて使わない親の平均年収の「差」。最近栃木で、同居人の無職の男に殺された「塗装工」の子どもの一人は一斗ちゃんと、確かいった。「斗」という字が使われていることに注意。名付けた親は「塗装工」○○さんというふうに報じられている。「上場企業社員」「会社役員」「公務員」「大学教授」「医師」などではなく、「塗装工」である。その被害児童の親も、「無職」と報じられている加害者も、元は暴走族であったということも報じられていた。M・ムーアなら、おそらく被害児童の親を雇用していた建設会社の役員や、彼が実際に塗った場所を取材するだろう。また、暴走族へ乗り物を供給する自動車メーカーのCEO、整備工場の社長、彼らが走る「公道」を作るのに直接関与したキャリア官僚もインタビューしたに違いない。無職とされる犯人の親の存否やその職業も調べて、雇用者のインタビューや所得を推測させる映像(家とか)を流しただろう。
 映画・ボーリング・フォー・コロンバインでは、6歳の黒人少年が6歳の白人の女の子を射殺したときに、30分以内に全米のマスメディアの取材チームがそろったという。もちろん、この田舎町に、これほどのマスコミが集まったことは過去にない。集まった報道陣の一人、あるキャスターが写されていた。リポートする前後に髪型を気にしたり、取材チームの手際の悪さに不平をこぼすなどのようすがリアルに写る。白人男性リポーターが着ている、高そうなコート、育ちのよさそうな顔立ちや仕草、そういうのが何ともいえずリアルでいい。むしろ筆者にはリアルすぎて痛みすら感じる。というのも、マスコミに正社員として入社し、リポーターの仕事をするにはたいへんな競争を勝ち抜かねばならぬことを身をもって知っているからだ(シュウカツの「敗者」だからね)。
 ちなみに、映画では加害児童の親は黒人で貧しく(ちなみに地域全体もGMの撤退で貧しかった)、元武器製造企業の福祉プログラムで、とんでもない遠距離通勤を事実上強いられていた実態を、当該作品で、監督は調べあげている。別に、だからその子供が白人の女の子を銃殺したとかは言わないけれど、とにかく事実として加害児童の親の貧困と長時間労働は、「存在」する。
 きっと日本の栃木で先日起こった、幼い兄弟が殺された殺人事件でもにたようなことが言えそうだ。リポーターはアメリカのそれと同じで忙しくて金持ちで勝ち組。被害者のことなんて何とも思っていない。とにかく彼らの目的は悲惨さや恐怖を強調するのみ。それで視聴者が一分でも長い間自局のチャンネルに合わせて、スポンサーのCMを見てくれることを願うのみ。なぜ、殺された兄弟が、高額所得者の子ではなく、元暴走族の親の子供であったか。殺した犯人のキャリアはどうだったか。男の子の名前で人気のある漢字「斗」を、自分の子どもにつける親とはどういう人たちなのかまで思いを巡らしたりは、絶対にしない。そういうことは民放視聴者からは求められていない。普通の視点じゃないからだと思う。そもそもそんなこと調べる時間はあり得ない。筆者の知人が勤める放送局正社員の平均睡眠時間は4時間である。そんな「無駄」なことをしていたら、自分の命を削ることになる。
 そういうわけで栃木の事件で民放が伝えたのは、親は「塗装工」、犯人は「無職」で「キレ易い」。キレやすいというのは、犯人が犯行前に立ち寄ったガソリンスタンドの店員が、マスコミの取材でそのように言っていたから。無職の殺人犯が「キレやすい」というとあたかも当然のように写るが、実際にキレるのはもっと別の種類の人であると筆者は認識している。私が知っている「キレる」人とは、たとえば私がたまたま学生時代にアルバイト先のTBS(東京放送という民放キー局)で目にしたプロデューサーとかディレクター、早稲田大学の西洋社会思想史の教授、OB訪問でお話を伺った電通という大手広告代理店の社員たちのほうである。こうした人たちのほうが「塗装工」とか「無職」よりも、よっぽど「キレやすい」ということは筆者が経験的に知る事実だ(残念ながら塗装工や無職の人がキレたという話を、筆者の身の回りでは聞いたことがないだけのこと。というか、そういう職業の人のうち何パーセントが切れるかどうかを比較したというデータを筆者は知りませんから)。
 「差」はまだある。身近に。この間、尋常ならぬその「差」についドキドキしてしまったのは、立川の北口、国道16号線を、五日市街道を背に駅へ向かう途中に、道沿いに数多く目にすることができる「スラム化した」商店街の廃墟の数々だ。普通商店街といえば、平日の夕方には買い物する奥さんがたで賑わうというイメージだった。しかしこの筆者のイメージは完全に誤りだった。シャッターは軒並み閉ざされ、落書きされ、アーケードは照明がつかずむしろ暗さを強調していた。そのホーンテッドマンション街を通り過ぎて駅に近づくにつれて、ビッグカメラや伊勢丹などの巨大な建物が大勢の人を吸い込んでいた。寂れた商店街と、ビッグカメラや伊勢丹など巨大小売店舗の建物の規模の差には、変にワクワクさせるものがあった。
 この閉店した商店街の店主を親に持つ子供は、今頃何をしているんだろう。ビックカメラの店員?それとも……。日本ではおなじみの光景である「シャッターが降りたままの商店街」、その子供たちに焦点を合わせたドキュメンタリー映画「閉店後」、きっと作ったら面白そうだ。
 最後に、こんな「差」も。地方自治体(公共団体)貧乏ワーストコンテストではつねに上位ランクでおなじみ「東京都小金井市」と、そのとなり、税収が芦屋市に並んでトップクラスの「東京都武蔵野市」。両市にある公園、それも平日昼間を観察してみよう。遊具といい、来ている「奥様方」といい、その奥様方の公園までの交通手段といい、未来のドキュメンタリー映画監督なら思わず小躍りしたくなるような胸躍る「差」がうようよ、いっぱいだ。
 この日本でも、まだまだ掘り下げれば刺激的な「差」というのは埋もれている。というか、これからもっともっと増えてくるはずだ。なんたって日本は、アメリカのことが大好きだからね。奇妙なことに戦争で負けて以来の、熱々の仲だってことは世界中のみんなが知っている。
 そんな日本のドキュメンタリー映画監督志望者にとっては当面、ネタに困ることはなさそうだ。筆者だって例外ではない。M・ムーアのドキュメンタリーをみたあとに、監督を志さないヤツがいたとしたら頭がおかしいとしか言うほかない。
 ムーアが、デブでだらしない格好を取材スタイルとして貫いていたのなら、筆者はもちろん全身ラバーがスタイル。ラバーコスをキメてスター・マップ(大金持ちの有名人の家の場所だけが掲載された地図のこと)片手に、いざピン・ポーン!
 最初のターゲットは、楽○の三○谷、おまえだ! 楽○に出店している数多くの埋もれてしまった「出店者」の人たちや、ネット商店のあおりでつぶれたリアル商店街の人たち、猛烈な管理主義の社内でノルマに追われて過ごす楽○社員ならびにその家族の、たまに野球観戦などにも行くそのつつましやかな暮らしぶりと、ゴルフ三昧のおまえの暮らし、その家、そのレジャー、そのクルマ、その食っているもの、全部全部、一切合切のその「差」を、くらべてやります。(野球ネタで)タダで宣伝しやがってからに……。
Text by Tetsuya Ichikawa
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村上春樹のアフターダーク

 章ごとにアナログ時計のイラストが描いてあって、最初の章の午前零時から、最後、朝の午前7時前までの、都会でのある夜を緻密に書き込んでいる。
 もっともこの本は活字が大きくてさらっと読めるので、この時刻通りに読み進むのは難しい。午前零時から読み出せば、たぶん2時前には終わってしまうだろう。
 陳腐な人生設定ながら、発生する奇妙な事件、きわめて具体的な、細かい物の描写、感情吐露、会話の一貫した音楽性で、この本は相変わらず健在な村上ワールドを楽しむことができる。ただし残念なのは、やや短すぎるということだろう。
 前の長い作品、『海辺のカフカ』のほうが筆者としてはよかった。というか、彼の作品は長ければ長いほどいい。もっともどっちがいい悪いとか、あらすじがどうのこうのではない気がする。村上春樹の楽しみ方は、あくまで自分の人生をより楽しくする、死ぬまでのこのひとときにちょっとした一服を得る、そういうようなものである。村上春樹の新作が出た、じゃあ読もう、読んだ、あいかわらずだ、それでホッとする、私であった。
 ところで筆者の読書歴は、文芸についてはじつは貧弱かも知れない。一貫して新作を読んでいる現代作家は村上春樹だけである。それ以外はいかなる作家のものであろうとフィクションは金輪際読むつもりはない。正直言って、時間の無駄にしか思えないから(文学部卒のくせに。ほかの学部落ちたからです)。
 思春期の頃読んだもので印象に残っているのは、谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀夫(ただし仮面の告白だけ)。村上龍、山田詠美、村上春樹、島田雅彦。これだけ上げればまあ私の「趣味」というものは伝わろう。
 読んだ本は二度と読むことはないが、捨てずにすべてとってある。
Text by Tetsuya Ichikawa
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変態者の主張と表現

 今日、テレビのニュースで公衆便所の女子トイレに、身長183センチメートルの女装した男性が潜んでいるところを逮捕されたと報じられていた。
「より女性らしくなるために女子トイレに入った」
と動機を語った。この事件で、近所の人がインタビューを受けていたが、みな一様に「気持ち悪い」「いやですね」などと問切り型の、感情的なコメントで吐き気がした。私に言わせればおまいらのほうがよっぽど気持ち悪いしイヤだ。
 身長が高いからといって、異性として行動をすることの自由を奪われる謂われはないだろう。性を越境したいと願う男性の気持ちはたいへんに切実である。
 たとえば鳥取在住の藤村梨沙さんは、性同一性障害の患者さんだった。最近、鏡に映った自分の上半身を自宅で写し、写真展に出展、入選した。彼女はこの作品に、子供がいることを理由に性同一障害特例法の適用除外となったことへの抗議をこめている。
 彼女がせっかくこうしてアピールしているので、いったい何がこの法の問題なのかを考えてみたい。
 藤村さんは中学時代から自分が男であることに違和感を覚えてきた。ところが相談するような機関もなく、女性と結婚して子供を授かる。ネットで自分の性別への違和感は性同一性障害であることを知り、結婚生活に終止符を打ってタイで治療を受けた(性転換をした)。
 戸籍上の性別も変えたいと思ったが、性同一性障害特例法(7月施行)では、「現に子のいないこと」という要件があり、藤村さんの思いは叶わなかった。(藤村さんについての事実関係は朝日新聞の記事から引用、晃子さんネタ提供ありがとうございます)
 子供がいる人は、外観を女性らしく変更しても、戸籍上の性を変えることができないとするこの法の意図は何だろう。
「子供がかわいそうだ」
 確かに子供にどう説明するかは難しく、その是非についても判断の分かれるところだろう。しかしだからといって、この病気を治癒するために戸籍を変える必要がある人の願いを一様に「除外」してもいいのだろうか?
 そもそも子供がいるだけ、国からしてみればいいじゃない。こんな病気を持っているにもかかわらず、子供まで産んだんだから逆に立派だ。経済の要請からすると誰だっていいから子供はとにかく産んで欲しいはずである。もっとも年金の計算ミスを少子高齢化のせいに振り向ける厚生労働省の役人からすれば、むしろ子供が増えると自分たちの瑕疵ある事務の責任をなすりつける相手がいなくなるとでもいうのだろうか?
 子供にしたところで、お父さんが病気だったから女の人に生まれ変わった、それでいいと思う。人間誰しも間違いはあるし、病気にもなる。お父さんが女になれば、お父さんは元気になれるし治るんだということならば、子供にしたってそれほど悪い話じゃない。
 誰でも自由に性別の変更ができるようにするべきだと思う。現状の様子、特に外観こそ、最優先で考えるべきだろう。
 さて、藤村さんのように、性差の問題を芸術にうったえるひともいれば、冒頭の女子便所でリアルに訴える人、ネットでの表現に訴える人、いろいろいる。
 藤村さんの場合は、写真展に自分のポートレートを出品するという表現行為だったわけだが、このように芸術が人々の抱える悩みや憤りを表現する手段として相変わらず重要な地位を占めていること、この点が今日のポイントになろう。なにかしらテーマ性やメッセージをこめ、作品を作れば、世の中がちょっと変わるかも知れない。
Text by Tetsuya Ichikawa
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