奴隷的拘束が快楽の源泉

1947年に施行された日本国憲法第18条に次のような一文を発見した。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」
 こんにち、おかげさまで私たち日本国民は、奴隷的拘束とは無縁の、自由な社会で暮らすことができている。それもこれも、憲法が奴隷的拘束を「ダメだよ」って禁止していて、国も、国民も、それを守っているからにほかならない。
 ところが、私のような困ったフェティシストの場合、奴隷的拘束を「欲する」という珍妙な(ビザールな)欲求を抱えている。
 なぜなら、奴隷的拘束を味わうことで、快感が得られるからである。憲法が云っている奴隷的拘束と、いま私が欲しているそれがもちろんいくつかの点で異なることは承知している。私が欲しているそれは、奴隷的拘束の真似事に過ぎない。自分の意に即して、いつでもイヤなら止められるからだ。それは奴隷とは云わないだろう。奴隷ごっこである。
 しかし、私が萌えるのは、それが奴隷的拘束下において行われているという状況設定、考えにおいて、である。行われる行為についてはここではあえて述べない。自己完結的な性的な探索行為とでも云っておこう。それも、禁忌されていればいるほど、ますます興奮の度合いは深まる。
 奴隷的拘束、ボンデージは、究極の禁忌にあたる。何しろ日本国憲法が禁止しているのである。これほどのタブーはないだろう。
 そういうタブーを、あえて冒してしまうところにボンデージの精神的快楽の源泉はある。しかも、他人にそれをしたら犯罪となるので、自分にする。そうしたらたまたまそこに快感の泉がわき出ていた。
 私は、憲法が禁止する奴隷的拘束が、勝手に、ひとりで自分を対象に行うところに無限の快楽の可能性を発見した。SMでいうところのMである。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com