ビザールプレイに茶の湯の精神

 今日もマスクを被り、一人で行為に及ぼうとしたが、グローブをはめてブーツを履いた時点で早くも手が勝手に動いて後が続かなくなってしまった筆者である。もっと長い時間、ビザールなグッズたちと身体を戯れさせたかったのだが、欲望が津波のように押し寄せて、あっというまである。
 フェティッシュな想像力のなかでビザール快楽を追求する私たちにとって共通の悩み、それは、早くいきすぎることである。
 どうしたらもっと長い時間、充実した時を過ごせるのか。あらかじめ想像力をたくましくしすぎるのもあれだし、手でいきなり触るのもまずい。ではどうしたらいいのか。どうした作法がこのビザールな宇宙をさらに拡げてくれるのか。
 作法、宇宙。このふたつの言葉から連想されるのは、日本のお家芸「茶の湯」ではないか。
 茶も、道具、作法、所作、あらゆるディティールひとつひとつに丁寧に侘びの精神を見いだして味わうことで、はじめてその哲学が達成される。私は、キャットスーツやグローブ、ラバーなどのピッチリしたアイテムで全身をくまなく覆う、私たちのビザールな行為が、ちょうど狭いにじり口から茶室に入るところからはじまる茶の作法にじつによく通じるものがある。
 そこで、茶のように、一件エロティシズムとは無縁な考え方をフェティッシュプレイに援用して、すぐいってしまって味気なくなることを防げないものかと思った次第である。
 先日はバッグに無造作にエログッズを詰め込んで、やりたいときにすぐやれるように、などと書いてしまったけれど、それは茶の精神には反している。狭い専用の部屋を用意し、その部屋の決まった位置に美しく清掃されたフェティッシュグッズの数々をまず陳列する。そして、下から上までひとつひとつのアイテムを、その姿形、色つやを愛でながら身に着けていくのである。ラバーなどを美しい所作のもと着こなすのは相当難儀であるが、それを極めることに意義を見いだすこと自体が、早漏を防ぐ目的のひとつになっている。
 つまり茶の湯の精神をビザールに持ち込む、筆者名付けるところのビザール禅においては、無目的で性の意味づけが困難な所作であればあるほどそれは、より広いビザール世界へと私たちを導いてくれることになる。
 茶も同じである。茶の芸術世界は、門からはじまっている。門から茶室に至るまでの庭の石の配置でさえ、非常に重要な手抜きの許されないポイントを、あたりまえに形成している。キャットスーツも美しく手入れされ、きちんとたたまれていないのであれば、そのビザールプレイは台無しだ。
 狭い穴から茶室に入り込む行為は、着づらいし、着たら最後脱ぎにくいビザールスーツに似ている。着づらいキャットスーツを困難をかいくぐってきて、なかにすっぽりと包まれてはじめて触れることのできる広大なる宇宙空間。茶人が、茶室において出会うのもまた同じである。もっともそのあと被ったマスクが苦しすぎて窒息寸前の星まで見えてしまうのはビザール禅だけか。
 いずれにしても精神が肉体を離れるために必要な、茶とビザールに共通する禅の心得であった。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com