本能が壊れた生き物、人間

 「すべての観念は、人において本能が壊れたために、それを補うべく幻想として生まれる」と、岸田秀が言っているそうだ(『臨床哲学』養老孟司 )。
 養老先生は、ある官僚と、国家なんて所詮幻想に過ぎないというのに、その官僚が圧倒的な実在感をもって国家をとらえているのに腹が立って口論となった。
 すべての観念は幻想で、所詮は人間が、それも本能が壊れた出来そこないの生き物である人間が作り上げたものに過ぎない。なのに、人は、なにか物事をたいそうなことのように絶対化したり、重大視したり、まじめに捕らえすぎてしまったりする。おおむね人の不幸というのはそういうところから発生するような気がする。
 官僚にとっての国家と、国家の雇われの身分を捨てて野に下りた養老とでは、国家に対する見方考え方は当然違う。それを前提としない、官僚のあまりに強固な国家観は私から観ても不愉快きわまりない。
 観念はあやふやで、相対的なもの。しかしときとしてそれは、死への欲望までをも醸成するという危険性をはらむ。
 2003年4月26日に享年(推定)26歳で自害して亡くなった二階堂奥歯さんは、死の幻想のために自らの命を絶った。
 いまだ公開され続ける、死の直前までつづられたブログの、この日の記述は、死に対する観念がゆっくりと醸成される様をリアルに読みとることができる。
「2003年4月14日(月)その2
勿論私はがんばれる。
私は恵まれた環境にいるのにもかかわらず周囲の人を深く深く傷つけた。そして今も、傷つけ続けている。
死にたいなんて、甘えている。よくも言えたものだ。
明日まで生き延びることに必死だなんて。
生きるという当たり前のことをこれほど恐ろしがるなんて。
大学を出たら普通は働いて生計を立て、自活する。あたりまえのことだ。生きるのは、明日を迎えるのは、あたりまえのことだ。
そんなあたりまえのことが、私には、ものすごくがんばらないとできないのだ。
なんで、そんなことができないのだろう。
病気だから? でも、それは病気を治す気がないからだ。
ちゃんとがんばっていないからだ。治す気があるなら治っているはずだ。努力が足りないのだ。
勿論、私は連休明けまで生きていける。
(普通の人がごく普通にするように)。
勿論、私は化粧をし、着替えることができる。
(それは、雪山に裸で入る覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私はエントランスカードをスロットに通すことができる。
(それは、手首に刃を走らせる覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は職場で挨拶し、細々とした雑事をてきぱきと片づけることができる。
(それは、頸動脈を突き破る覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は様々な連絡を取り、打ち合わせをし、トラブルを解決することができる。
(それは、首を吊る覚悟があれば簡単だ。)。
勿論、私は自分の意見を言い、人の意見を聞き、摺り合わせ、決断し実行することができる。
(それはガソリンをかぶって火をつける覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は接待をすることができる、にこやかに座持ちし、相手に気持ちよくなってもらうことができる。
(それは致死量の薬物を飲みほす覚悟があれば簡単だ)。
勿論、私は生きていける。
(それは18階立てのビルから飛び降りる覚悟があれば簡単だ)。
私はがんばれる。
まだ発狂してないし、ショック死もしていない。
それはまだ余力があるということだ。
私はがんばれる。明日も、明後日も生きる。そして、連休明けから出社する。
おろしたての春のスーツで、きちんとご挨拶して。
そして、普通に働く。普通の人が普通にするように。
それは、がんばってできないことじゃないはずだ。
勿論、私にはできるはずだ。
私はまだがんばれる。ちゃんと。普通に。あたりまえに。」
 12日後の26日に、がんばれるはずだった連休明けを迎えることなく、ビルから飛び降りてしまった。
 観念というのは危ない。危ない観念の暴走に歯止めを利かせるためには、ビザールプレイくらいでお茶を濁しておいたほうがよほど平和である。
 まあきょうは取り立てて書くこともない、台風前の雨の降る陰鬱な秋の一日であった。こういう日に限り、この二階堂さんの「もちろん、私は○○できる。」(それは○○があれば簡単だ)のフレーズがぐるぐる頭のなかをまわりだして私をさいなむ。この人と会ったことがあるからこそ痛切なものである。
 ちなみに、二階堂さんがAlt-fetish.comでお買い求めになられたのは、この本ただ一冊のみ。透明ラバーを着れば、人形みたいになれる、その無機質なものになれるっていうのがいいんですよって、私に力説したのは、死ぬ半年前のことであった。本だけじゃなく、透明ラバーのキャットスーツを持参して差し上げておけばよかったと悔やまれてならない。
 この日の日記にはいくつも「がんばる」という言葉が出るけれども、そもそも頑張るというのは彼女にとって生きることをがんばるというようなもので、通常ではなかなか味わうことのできない心境だ。鬱病患者だったのかどうかは分からないけれど、病気だみたいなことは書いてある。
 よく人は「がんばれ」というけれど、自分が自分にがんばろうって思うのならまだしも、他人がいうがんばれというのははなはだ無責任でバカげた言葉であるとしか思えない。私がそう思うのも、人間はつくづく本能が壊れた、「瑕疵ある生命体」だからこそなんじゃないかと思う次第である。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com

本能が壊れた生き物、人間” への1件のフィードバック

  1.  二階堂奥歯さんの記事は前にも書かれていましたね。その時も随分考え込んでしまいました。

コメントは停止中です。