電車変態男の思い出

 女性がブーツをびっちびちにはいていたり、革のミニスカートにギューッとなったヒップをみるとたまらなく興奮する変態男のブログです。今日は電車をテーマに。最近電車って旬の話題ですからね。
 さいしょに、筆者にとって電車とは何であったか。
 最初に電車を意識したのはええええ、作りましたとも、鉄道模型。エヌゲージです。はいはい。オタクでしたからね。小学校の頃、画材屋で一畳ほどもある板を買ってきて、そこへ紙粘土で山を作ったり、線路をはって町を作り(家々には「麦球」が埋め込まれていて、ひとつひとつの窓から明かりが漏れていた)、電車を走らせた。クラスの友達を呼んで、照明係や音響係を決めて、ベートーベンの田園とともに夜明けの町を走る始発電車とか、そういうテーマ(シーナリー)演出を楽しんだものだ。
 中学になると、国鉄はJRになった。確か4月だったかな。それまで、JRはゴトウクミコかなんかを使って「ジャン、JRヒガーシニホン、あと○日!」と毎日テレビCMを流してPRをしていたので、中学生の私は気が気でなかった。一体、その日から毎日通るあの電車がどう変わるのか。絶対に見てやろうと思った。そしてやってきた民営化初日の朝。JRというマークが貼られた電車がやってきたのを見てひとり線路脇で鳥肌を立てていたのははい私です。きゃほ。いや、何が変わったって、マークがくっついていただけなんですけど!
 高校になると電車は社会への最初の入り口となった。筆者が電車に日常的に乗り始めたのは、高校入学してすぐ、吉祥寺の塾へ通いだしてからである。自習室に通うために、毎日電車に乗った。
 それまでは近所の公立の小中学校に徒歩や自転車で通っていただけだったので、高校生になり、電車に乗るようになるといよいよ自分も大人になったものと得意になったものだ。そもそも電車に乗って塾へ通う理由も、一生懸命勉強して立身出世しようという前向きな、青春のエネルギーの現れである。いまの筆者にみられるような後ろ向きなのはまったくない。とにかく大学に入りさえすれば素晴らしい人生が開けるものと確信していたのだからバカみたい。
 たまたま駅のそばに住んだ時期もある。毎日遅くまで勉強していて、ふと外を見ると、夜中の12時過ぎなのに中央線は乗客で満杯だったりするのをみると、理由もなく奮い立ち、がんばろうという気分になったものだ。
 メデタク高校を卒業して浪人、大学、就職と、電車に乗り続けるうちに人生に対するウザさ加減も増大の一途をきわめるようになる。就職してから毎日通勤電車に揺られてみてはじめて、こりゃかなわんと思った。高校時代は自分を大人の気分にさせてくれた中央線、このオレンジ色のにくいヤツが、いまやゲットーへと向かうユダヤ人の強制収容列車のおもむきである。くさい。ぎゅうずめ。先が見える人生。あーユダヤ人と同じだ。こんな電車から、人生から、早くおりたーい!
 エーイ、おりちまえってんでどんどん電車に飛び降りちゃう人が増えたのもちょうど筆者が大学卒業の頃である。中央線の自殺は日本中の話題となった。私もよく見ましたよ。特別快速が三鷹駅のホームの途中でキーッと止まってハイ成仏。「ただいま、当駅の6番線ホームにて、人身事故が発生いたしました」(すぐに)「まもなく5番線から快速電車が発車いたします」特別快速待ちだったのが、当の特快は人を引いて立ち往生、ホームに出て待っていたみんな何事もないようにまた快速に戻るみたいなの。あの「戻り」は重かったなー。
 ここ数年は中央線ブームとかで。結構ですな。
 そしていま。32年間、ずっと、(住んでいるところが常に線路に結構近かったんで)中央線が走る音をかすかに耳にしながら生きてきた私は、電車にほとんど乗らない人生を「好んで」送っている。
 電車なんか好んで乗るようなものじゃない。みんな乗りたくない。乗らずに済むものなら乗らないに限る。
それでも中央線沿線を離れたくない市川哲也
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