オタク、何が問題か。

 少女がかっさらわれて変態的行為ののち殺害された事件で、マスコミはつねに犯人はオタクなんじゃないか、と「オタク断罪」したがる。
 chikaさんも触れていたけれども、奈良で起こった事件でもあるジャーナリストが、犯人について、人形フェチだったなどといったようである。
 私はオタクであるが、それは物事にこだわりを持つオトナのスタイル、という程度の意味である。何フェチか、とかは、オタクどうのこうのを論じるときは特に問題にはならない。
 オタクの何が問題かというと、ズバリそのファッションセンスの無さ加減ではなかろうか。人形フェチでも、件のジャーナリストがいうように子供を殺しちゃうのもいれば、おしゃれな人もいるかも知れない。
 ファッションセンスの無さとはすなわち、秋葉原でうろつく男オタク、イベントで、似合うにあわないに関わりなくヒラヒラレースや妙な眼鏡、ネクタイを締めるオタク女たちのそれのことである。明らかに世間のファッションの標準からずれているし、見苦しい。
 なぜ見苦しいかというとファッションセンスを磨いて、向上しようという履歴がまずその外観から感じられない。女性だって、別にヒラヒラレースの服が悪いんじゃなく、それなりの年齢なのにメークひとつしないところがダメなのである。
 オタク的素質のあるなしにかかわらず普通な一般人は、そこそこに見られようと一生懸命努力しているはずだ。ファッション誌を読み、デパートへ行って高い服も買うし、高級化粧品に投資してメークも研究する。そうやって、もとの自分の姿がどうあれ、他人様の前で最低限恥ずかしくないようにルックスを標準化する。ださいオタクはそれを放棄している。その放棄は、外観にかかわることだけにすぐに他人に伝わる。
 一般人が、外観のオシャレに気を遣うのは、自分が共有する空間に属するすべてのほかの人たちに対する、思いやり、配慮があるからである。オシャレ、ファッションセンスは、とりもなおさず他人がまずあっての、自分なのだ。
 他人の視座を、自分のなかに持つことが果たしてオタクたちにできているか。マスコミが非難するオタク像は、それができていないのである。そしてそれは、実際オタクイベントに集まるオタクたちの多くに、よく当てはまる。
 Alt-fetish.comがただの変態ショップでもなく、オトナのおもちゃ屋でもなく、ビデオ・DVDのオンラインストアでもなく、「変態」としては妙に浮いているのは、他人の視座をまず気にする、そういう社会性を持つ、ファッション性の高い変態でありたいという主宰する側の哲学が随所に散りばめられているからである。
 だから、今回のように猟奇犯罪により社会のなかでまたぞろ変態とかオタクがとんでもない悪者のレッテルとして登場したとしても、Alt-fetish.comは何ら恥じることなく、連中を非難する側に立っていることができるはずである。読者諸兄が、日頃は飽くなきファッションあるいは、社会性をともなうオトナのスタイルの求道者であることを私は固く信じている。
 あるいはこんな見方もありカモ知れない。オタクは社会と折り合いをつけるために、生きていくために、固有の物語(アニメなど)に自己同一化しがちだが、その物語と一般社会の規範に齟齬が生じている。それがファッションに現れている、そういう見方もできる。
Text by Tetsuya Ichikawa
ラバー・レザー・PVCフェティッシュ
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