倦怠からの脱出

 むかしは一日がとても長く感じられたものだ。しかし、齢28歳を過ぎた頃から、一日がアッという間に過ぎるようになった。そしていま、一日どころか一週間、一月、いや一年でさえ、アッという間に過ぎる。その認識は、今週末にヤッテクル、年に一度の(夏コミという意味で)あのイベントによって一層強化される。もう一年がたったのかと───。
 私たちはいま、劇的な変革が起こりづらい成熟した文明の停滞期の中にある。日々の私たちの倦怠感はそのまま、先進各国を覆う倦怠感とリンクするように思える。いったいどうすればこの倦怠から、平和なぬるま湯から抜け出すことができるのだろうか。毎日毎日、いくら平和で満ち足りているとはいえ、いい加減にうんざりしてくるのである。刺激が欲しくなる。なんでもいい。他人の不幸、身内のトラブル、友人の結婚、社会的な事件。ヤフートピックスに表示される目を見張るような大ニュース。もっと早く、もっとたくさん、もっと新しいニュースが私たちには必要だ。もっともっと。
 広いインターネットの中で、そういえばAlt-fetish.comが果たしている役割が、人々の倦怠と退屈からの脱出を手助けすることであった。ハッと、思い出した。このAlt-fetish.comのコンテンツづくりこそじつに、マックジョブ(ダグラス・クープランドの小説にでてくる用語。マクドナルドのアルバイトに典型される低賃金、低未来、低名誉なパートタイムジョブ)にくらべるとはるかにましな、刺激あふれる仕事といえなくはない。
 ところが、この刺激あふれるはずの仕事でさえ、もう4年もやっていると単に毎日片づけなければならない義務、ルーティンになり、倦怠感が拭いようもなくわき起こってくる。じつはなにやってもそうだった。私は高校、大学と、どうしても入りたい学校に見事入試で突破し、入学を決めてきた。そしてなりたかった編集者にもなれた。ところが、どうしたことか、あれほどなりたかった学生、職業に就けたとたんに、その数日後はもう早くも「ああまた出かけなければならないや」という、義務感にかわっていた。そして、世間でいわれるところの、「好きを仕事にする」の典型例であるこのAlt-fetish.comのコンテンツ業務。以下繰り返しにつき省略。
 いかーん。これではイカン。何とかしなければ。
 こんなことを書いたのも、たまたま今日、家の隅に茶ばんだ一冊の文庫本を発見したのが理由だ。『田舎司祭の日記』ベルナノス著(新潮文庫)。1936年に発表された小説で、ド田舎の司祭が形骸化した信仰生活を覆う人々の倦怠感を表現したもの。司祭はなんとか倦怠から人々を救おうとするが、結局できないという話である。
 なるほどじつは人類は数百年ものあいだ、いや、数千年にわたって、日常生活の倦怠と戦い続けてきたのかもしれない。この人類と倦怠感の戦い、私は、小説の田舎司祭じゃないけれども、変態司祭として、この倦怠感との戦いという新しいミッションを感じている。「平和でいいじゃないか。幸せボケか?」などと片づけることは許されない。倦怠に飲み込まれた日常のどこに幸せが?(もちろん飛行機に乗っていて落下する恐怖にくらべればいかなる倦怠も幸せにうつるのだが……)。
 今日、倦怠は加速している。というのも、平和時が続いて、あるいは情報が簡単に行き渡るようになり、あらゆる過去の事例(特に人のライフコースなど)が簡単に手にはいる。FP(ファイナンシャルプランナー)になればなおさらだ。FPは経済面で人の人生が類型化されたお金のDBを道具としている。大卒で、男で、サラリーマンで、何歳で結婚して、何歳で子供が大学に入って、何歳で定年退職して、一生もらえる給料と退職金はいくらで、老後が平均ウン十年あって、必要な金はハイあなたはいくらです、これがFPの仕事である。やってて反吐がでる。FPとは、客に「陳腐」という文字の焼き印を押してまわるような仕事である。
 やめやめ。Alt-fetish.comに話を戻そう。このビザールファッションのジャンルこそ、人々を退屈の渦の中から救い出すひとつの有力な手段ではなかろうか? 人々は退屈から逃れるために、Alt-fetish.comをブックマークに入れ、定期的に訪れてくれているのではないか?
 だとしたら、まずはこの私が倦怠してどうする?! 私が熱狂しないとダメだ。あーがんばろう。
どうすんの市川哲也
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