現代社会の、医療の現場では、性のあり方が従来の(戸籍上の)男性、女性のほかに、非常に多様になっていることが確かめられている。
ALT-FETISH 東京本店に日夜お越しになるお客様を、十年以上、一人で応接してきて思うことは、AさんとBさんで、性のあり方が異なるのはもとより、同じ一個体であるAさんの中でも、ときと場合により、ダイナミックに性を変化させているということだ。
この性を変化させているという表現が、最近ぴったりくる書物に出会った。
『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(國分功一郎 (著), 熊谷晋一郎 (著))である。非常にユニークなたとえが載っていた(すんませんうろ覚え)。
中動態という「態」を説明するのにこの本の著者たちは自転車に乗ることを一つ例に挙げている。中動態は、受動態と能動態と異なるもう一つの「態」である。現代人にとってはなじみがない。自転車に乗る場合を考えてみる。
自転車に乗るというのは、自転車を使うということである。使うというのは、では能動態だろうか?受動態だろうか。もちろん、能動態だというだろう(なぜなら、何かされるということではないから)。
しかし、そこでハイそうですねお終いなら、彼(國分氏)が東大教授になっていたりはしないし、彼の専門の哲学が何千年も、営まれてもいやしない。
まー話を戻すが、結局自転車に乗るというのは、自分の身体を、自転車という対象を使うことができる状態へと作り替えているといえる。自然に。意識せず。
38兆個の細胞一つ一つに、意識が「能動的に」!働きかけて、ハイ、足をこいで、ハイ、バランスセンサーオン、ハイ、右に何キロ傾いたから上体を何度曲げてバランスを均衡して、ってなってたら、それは確かに、能動態だが、そんな脳みそすごいなそれ。ロボットかなにか?っていう話で、フィクションですよね。
というわけでですから、自転車に乗るってのは、能動態のようで実は違くて中動態だよということを、いいたい。
何にも考えず、人は、自転車があれば、さっと乗ってこぎ出すことができる。これこそまさに中動態所作。
人間=場所と考えたりも、する。何かが起こる「場」。それが人間。人間とは何か。それは、「場所」である。
場所では、反応が起きる。外部環境からも、内部からもいろいろな情報を読み取って起こる。ちみに、そうした反応のるつぼの中で、意識がリアルタイムにコントロールしていることはまれだ。意識は、たいてい、「後付け」に過ぎない、とほほ。
ラバーを着に人は店に来る。で、私が着せ込む。すると、客はもうすでに、ラバーを着るという「場」へと、転生してしまっている。ラバーは、客(人)に中動態的な反応、つまり、ラバーを使う場へとみずからを「変化」させることができる謎のオブジェクトである。
男はたいてい、興奮して、起つもの起たせてオーとか、あーとか、言葉にならない「感想」のうめきを漏らす。
女は、自分の身体の新しい使い方に気がついて、新自由主義的な「企業人」へと転生する。
今、男は、こう、女は、こうといったが、実は冒頭に触れたように、性のあり方が多様なので、本当のところはグラデーション(スペクトラム)になっている。
ラバーという水晶を通じて私が目にしてきたのは、なだらかに分布するさまざまな色のバリエーションだった。