東京都が男らしさ、女らしさといった性差別からの解放という理念が込められたこのジェンダーフリーという言葉をあらゆる行政文書から撤去し、今後教育現場でも使わないようにするという。
筆者は今日戦争の悲惨さを、旧満州のラジオ局に残された戦中の人々の肉声レコードと、戦場へ組織に属さずおもむき現場を伝えるフリージャーナリストの視点というふたつの角度からあらためて深く考えさせられた。
なのにと知事はこのように、男らしさとか女らしさがどんどん崩壊していく現状に危機感を覚えて、訳の分からない言葉は使わないようにするというわけだ。
このような、行政庁が特定の言葉を排除しようとするのはとてもよろしくないと思う。言葉には社会そのときそのときの気分や人々の意識が反映されており、ある種の必然から使われているのだから、それをお上たる行政庁が、ダメーッというのは、人々のあいだで醸成される市民意識、社会理念を破壊しようとするようなものだ。
そのような行政庁の行動の背景には、結局保守化というか、戦争でもおっぱじまんないかなーっていう国や大企業のきな臭いエゴイズムが透けて見える。
戦争が終わって60年が経とうとしている。そういう今日、やはりこうした行政庁を選んだ選挙人たる私たちの責任もまた問われている。
ていうか、このchikaさんの写真、最高ですよ。
それにくらべAlt-fetish.comのオリジナルギャラリーのnanaはだいぶおとなしいかと思います。しかしまあ身体美の追究というテーマがありますから、これはこれで。
話は戻るが、私らフェティシスト、服装倒錯者としては、こうした都知事の決定がますます何というか、私たちを変態という社会におけるマイノリティー、辺境へと押しやろうとしているのではないかと危惧している。筆者は色白、もやしのようで女みたいで、昔から体育も2でおよそ男らしさとは無縁の変態キャラだっただけに、ジェンダーフリーはダメーというのは身もふたもなく、残念でならない。じゃあなにか。男らしさとは、女らしさとは、そういうのをどんどんやるというのだろうか。むしろそっちのほうが少数なんではないか。
オリンピックがテレビメディアを席巻しているが、スポーツに一切関心がない筆者はリモコンをステ、街へ出ることにしよう。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com