ラバー試着はいかにして性的不快感をとりのぞいているのか

要旨:人間が人間にするサービスなので、不快なことがないように可能な限りの工夫をしているところです。お客様も見通しや考え方をちょっと変えるとなおいっそう良いと思います。

最近の試着ご利用者様の新しい傾向というか、この世にもまれな謎のサービスである、「ラバースーツ衣料品販売店による、商品の試着」から始まり、お客様の貢献やアドバイスで、今や「試着そのもの」を目的とするサービスとなったこのサービス。最近若い人(20代~30代)の中には以下の傾向を備える人が多い。

  • 女装したい
  • めちゃくちゃに陵辱されたい
  • 現在のセクシャルオリエンテーションと無関係の地平に経ちたい
  • ラバーで全部覆い隠した上でオブジェクトを口に含むなど積極的な接触をしたい

今社会を見渡すと、コンビニの無人レジに明らかなように、人と人の接触は職場を除いてほぼ無くなってきている。会社である程度居心地がいいのならば問題ないが、そうではない場合、人は幸福感を得られにくい。幸福感はオキシトシンという脳内物質で感じることが出来る。そのオキシトシンが分泌されるのは人と人の接触(ハグや交歓、食事を共にするなど)によってである。したがって、オキシトシンが分泌されにくい社会であれば、幸福感は下がろうというものだ。

ラバーを着てハグしてみると分かるが、サービス提供者側=支援者側にも、とてつもない「幸福感」が訪れる。これは間違いない。相手がどんな人※1であろうとそれは変わりない。人と人の接触による相乗効果をラバーでブーストをかけて、短時間でオキシトシンを分泌するひとときを創出することにより社会に幸福を増している仕事だと思うと光栄である。

試着サービスで提供しているギチギチ暗闇拘束の流れで、別途料金でハグしたりされたりといった支援プランを提供しはじめているのは、上記のようなお客様の特に若いお客様の切実なニーズをキャッチしたからである。

また、海外からお越しのお客様や、ゲイのお客様からも、そのようなサービスしないのはあり得ないし、それをやってこそ、ラバーの素晴らしさを最も効果的に伝えられるといわれた。まさにその通りだと思った。

オルタフェティッシュは、そうはいっても、初心者の人がそれまで社会生活を普通にこなしてきて、突然新小金井駅近くのマンションの一室に入ってラバーに着替えたからといって、脳のスイッチが切り替わるかというと人によっては切り替わりにくい人も多いと思う。これは、ソーシャルワークでは援助を受けるリテラシーがあるかないか、心構えや誤った思い込みの強度で、受援力という。ここで、「力」という言葉に留意してほしい。支援を受けるというのは、何か、負けとか治療とか、ダメだから補うとか助けるとかそういうことではなくて、今すでに持っている「力」(パワー、権力)を、さらに発達させること、これこそが「支援」であり、ケアという行為の本質である。

もとよりラバー試着に申し込むことが出来ている時点で、すべてのご利用者様はこの「力」をもっている。私はさらに、この力を発達させる手伝いをするためにやっている。そのための施設であるということをすぐに直感で分かるように、スモークマシンで炊いたスモークをレーザーが動いてまるで水中にいるかのようなイマーシブ演出、穏やかで心拍と同調するような一定のリズムを刻むアンビエント音楽、アロマ、そして支援者の見た目等など、現在できる限りのことはやっている。

著者近影

お客様のほうも以下の小論を読んで、自分が今、男性だ、好きなのはだから、ラバーを着たラバーフェチの若い女性※2だ、みたいな、いくら希求しても時間の無駄なことに、貴重な脳の認知リソースを空費せずに、ラバーと自分あるいはラバーを着るという活動をいかに自分のストレングスの発達に結びつけることが出来るのか、それに意識を研ぎ澄ませてもらいたい。

セクシャルオリエンテーションの呪縛から自由になるには?
Ⅰ.「自由」とは、誰のためのものか
 現代は「多様性の時代」と言われる。LGBTQ+という言葉が社会に浸透し、メディアでも「誰を愛してもいい」と語られるようになった。しかし、その裏側で、私たちは新たな同調圧力にさらされているのかもしれない。
 「あなたはどのカテゴリー?」
 「ラベルをつけて、安心させてください。」
 ──そんな空気が、知らぬ間に私たちを縛っている。
 本来、性のあり方は流動的で、言語化を拒むほど繊細で、個人的なものだ。それを「理解」や「制度化」の名のもとに、再び枠にはめようとする現代社会の傾向こそが、セクシャルオリエンテーションの“新しい呪縛”と言える。

Ⅱ.ラベルが生む安心と不自由
 ラベルは、他者に説明するための便利なツールだ。しかしそれは、同時に自分を固定化する檻にもなりうる。
 「自分はバイセクシュアルだから、こうあるべき」
 「私はアセクシュアルだから、恋愛感情をもってはいけない」
 ──そうした“自己規律”が、いつのまにか自己の自然な感情を押し込めてしまう。
 人は変化する存在である。感情も嗜好も、時間とともにゆらぎ、再構成される。それを恥じる必要などない。むしろ、そのゆらぎの中にこそ、生きている実感がある。

Ⅲ.意識の自由と、思考の自律
 人間の意識は、どのような対象を意識するかを、自分自身で選び取ることができる。
 それは他人の命令によるものではなく、外部からの監視によるものでもない。
 「考えてはいけないこと」をあらかじめ排除する社会は、自由を装いながら、思考の空間を狭めていく。
 もちろん、反社会的な内容や、他者を傷つける空想を習慣化することは危険であり、倫理的にも望ましくない。
 しかし、性的な嗜好――セクシャルプリファレンスの領域にまで、道徳的抑圧を広げる必要はない。
 むしろ、その内面の自由な観察こそが、個人の成熟と他者理解の基盤になるのではないか。

Ⅳ.セクシャルプリファレンスという、もう一つの自由
 セクシャルオリエンテーション(性的指向)は、誰を好きになるか、という関係性の方向を指す。
 それに対し、セクシャルプリファレンス(性的嗜好)は、何に惹かれるか、どんな関係や美意識にときめくか、というより内面的で感性的な領域に属する。
 だが、このセクシャルプリファレンスの領域は、長らく社会的スティグマによって汚染されてきた。
 “フェチ”“サディズム”“マゾヒズム”といった言葉が、変態・逸脱・恥の象徴として扱われ、そこに思考を向けること自体が忌避されてきた。
 ──けれど、それはもったいない話だ。
 人間の意識は、本来、自分が思いたいものを思い、考えたいものを考える自由をもっている。
 その自由を行使することは、誰の許可もいらないし、誰かの命令でもない。

Ⅴ.結論:自由とは、内面の方向を選べること
 セクシャルオリエンテーションの呪縛から自由になる最大のメリットは、
 セクシャルプリファレンスの領域で、自分が本来もっている率直な好みの対象に、素直に向き合い、何の罪悪感もなく、その対象との交換を享受し、享有できるようになることにある。
 セクシャルプリファレンスは、従来社会的なスティグマ(変態、フェチ、サドマゾなど)に概念汚染され、意思に登らせて考える対象とすること自体が忌避されてきたが、それは実にもったいない話である。
 人の意識は、本来、自分がそう思いたいものを意識の領域に乗せる(考えを巡らす対象を置く)ことが、誰の指揮命令がなくともできるはずだ。
 本来それは自由であり、ある内容をどう思おうと、それ自体は誰にも制限されないはずである。
 もちろん、反社会的な内容を思い浮かべることを習慣化するのは危険であり、それは基本道徳として忌避されるべきだが、セクシャルプリファレンス的なことまで自己抑制する必要はない。
 私たちは、思考する自由、感じる自由、そして欲する自由をもっている。
 それを封じるのは、他人の目ではなく、自分自身の“内なる検閲”である。
 自由とは、無制限に行動することではなく、自分の意識を自分で選べることだ。
 だからこそ、性や嗜好をめぐる思考の領域でも、私たちは自分自身を取り戻さなければならない。
 社会がどう言おうと、他者がどう評価しようと――

※1 ご入室いただいて一瞬で清潔にしているかどうか分かりますし、脱げば風呂キャン界隈かどうかもすぐ分かりますので、最低限前日もしくは当日朝、シャワー浴びてきれいにしてからお越し下さい。やはり清潔でないのならこちらオキシトシン云々以前の問題になります。

※2 いません。いてもお金かかりすぎます。