変態者の主張と表現

 今日、テレビのニュースで公衆便所の女子トイレに、身長183センチメートルの女装した男性が潜んでいるところを逮捕されたと報じられていた。
「より女性らしくなるために女子トイレに入った」
と動機を語った。この事件で、近所の人がインタビューを受けていたが、みな一様に「気持ち悪い」「いやですね」などと問切り型の、感情的なコメントで吐き気がした。私に言わせればおまいらのほうがよっぽど気持ち悪いしイヤだ。
 身長が高いからといって、異性として行動をすることの自由を奪われる謂われはないだろう。性を越境したいと願う男性の気持ちはたいへんに切実である。
 たとえば鳥取在住の藤村梨沙さんは、性同一性障害の患者さんだった。最近、鏡に映った自分の上半身を自宅で写し、写真展に出展、入選した。彼女はこの作品に、子供がいることを理由に性同一障害特例法の適用除外となったことへの抗議をこめている。
 彼女がせっかくこうしてアピールしているので、いったい何がこの法の問題なのかを考えてみたい。
 藤村さんは中学時代から自分が男であることに違和感を覚えてきた。ところが相談するような機関もなく、女性と結婚して子供を授かる。ネットで自分の性別への違和感は性同一性障害であることを知り、結婚生活に終止符を打ってタイで治療を受けた(性転換をした)。
 戸籍上の性別も変えたいと思ったが、性同一性障害特例法(7月施行)では、「現に子のいないこと」という要件があり、藤村さんの思いは叶わなかった。(藤村さんについての事実関係は朝日新聞の記事から引用、晃子さんネタ提供ありがとうございます)
 子供がいる人は、外観を女性らしく変更しても、戸籍上の性を変えることができないとするこの法の意図は何だろう。
「子供がかわいそうだ」
 確かに子供にどう説明するかは難しく、その是非についても判断の分かれるところだろう。しかしだからといって、この病気を治癒するために戸籍を変える必要がある人の願いを一様に「除外」してもいいのだろうか?
 そもそも子供がいるだけ、国からしてみればいいじゃない。こんな病気を持っているにもかかわらず、子供まで産んだんだから逆に立派だ。経済の要請からすると誰だっていいから子供はとにかく産んで欲しいはずである。もっとも年金の計算ミスを少子高齢化のせいに振り向ける厚生労働省の役人からすれば、むしろ子供が増えると自分たちの瑕疵ある事務の責任をなすりつける相手がいなくなるとでもいうのだろうか?
 子供にしたところで、お父さんが病気だったから女の人に生まれ変わった、それでいいと思う。人間誰しも間違いはあるし、病気にもなる。お父さんが女になれば、お父さんは元気になれるし治るんだということならば、子供にしたってそれほど悪い話じゃない。
 誰でも自由に性別の変更ができるようにするべきだと思う。現状の様子、特に外観こそ、最優先で考えるべきだろう。
 さて、藤村さんのように、性差の問題を芸術にうったえるひともいれば、冒頭の女子便所でリアルに訴える人、ネットでの表現に訴える人、いろいろいる。
 藤村さんの場合は、写真展に自分のポートレートを出品するという表現行為だったわけだが、このように芸術が人々の抱える悩みや憤りを表現する手段として相変わらず重要な地位を占めていること、この点が今日のポイントになろう。なにかしらテーマ性やメッセージをこめ、作品を作れば、世の中がちょっと変わるかも知れない。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com