キャシャーンが実写映画化される。ネットでの露出が増えるにつれ、筆者のあやしげな記憶がよみがえってきた。
キャシャーンは1973年公開とされている。筆者は1歳。しかし実際に筆者にとんでもないある影響を及ぼしたのは、たぶん再放送に違いない。1歳では覚えていないはずだからだ(もしかして1歳のそれが筆者にある影響を及ぼしたのかもしれない)。
そのある影響とはいうまでもない。筆者のフェチ化、M化である。
キャシャーンのコスチュームをみてもらいたい。真っ白なキャットスーツである。もちろん戦闘服ということでスポーティなデザインが施されているものの、身体のラインがぴったり浮かび上がっている。ブーツ、グローブをはいて、顔面以外の肌は露出しない。ただ、筋肉質な彼の身体が、薄いコスチュームに露骨な陰影を作っており、肉体の存在感はむしろ強まっている。
ただ単にコスチュームがフェティッシュなだけでは、これほどのフェティシズムは植え付けられることはなかっただろう。キャシャーンが、強烈なフェティッシュ媒体になった理由は、それがハードな戦闘もの、バイオレンスものであったことに由来する。
キャシャーンは、いよいよ闘いが本格化するというシーンで、自動的にヘルメットの左右の頬の部分からマスクが出てくる。マスクが口と鼻をおおうと、あとは目しか露出しない。そうした「戦闘のための完全防備」状態で、殴ったり、殴られたり、もう地面にたたきつけられてうめいたりと、じつに暴力的なシーンがこれでもかと繰り返される。
キャシャーンはヒーローとして描かれているから、もちろんかっこいい。男の子である筆者が、キャシャーンみたいになりたいと思わないはずがない。
筆者のフェティシズムの種は、キャシャーンによって埋め込まれたのである。
種が芽を出すためにはさらに複雑な反応が筆者のなかでは必要だっただろう。たとえば、キャシャーンというのは人造人間で、見た目こそ男だが人間ではないとされている。つまり性差から自由である。性差がない丈夫なロボットが、普通なら死んでしまうようなハードな戦闘を繰り広げるというのがとにかく圧倒的なエロスの培養に一役買った。
おかげさまで、30歳を過ぎたいまもってなお、筆者の最大の関心事はフェティシズムである。仕事、家庭、セックス、そういうものを超越した対象として、フェティシズムが筆者の心を支配し続けている。Text by Tetsuya Ichikawa Alt-fetish.com