哲学的考察

ラバースーツはただのフェティッシュじゃない? 「モノ」と「つながり」をめぐる5つの意外な真実

「フェティッシュ」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。多くの人は、それをニッチで性的な嗜癖、一部の特殊な人々のものだと考えるかもしれません。しかし、もしそれが単なる嗜癖ではなく、一部の人々にとって他者や世界と繋がるための、驚くほど洗練された自己流の技術だとしたら?

これから解き明かすのは、「倒錯」というレッテルがいかに本質を見誤らせるか、そしてその奥に隠された、人間関係を可能にするための驚くべき知恵と技術です。

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1. 性的フェティッシュ? それとも「感覚調整」?—自閉スペクトラムとの意外な共通点

ラバースーツがもたらす体験には、いくつかの際立った物理的特性があります。全身を均質で強い圧力で包む「触覚刺激」、自分の身体の輪郭を明確に感じさせる「身体境界の明確化」、外部の雑多な情報を遮断する「刺激の単純化」、そして、一連の行為が常に同じ手順で再現でき、結果が予測できる「行為の予測可能性」です。

興味深いことに、これらの特性は、自閉スペectラム(ASD)当事者への支援で語られるニーズと驚くほど一致します。彼らが求めることの多い「感覚調整(sensory regulation)」や、自己と他者の境界を安定させたいという「自己境界の安定化」の欲求と、ラバースーツが提供する感覚は構造的に非常に近いのです。

これは重要な視点です。「性的フェティッシュ」という一枚岩のラベルの裏には、実は「神経発達的なニーズに対する、自己流の適応戦略」という、まったく異なる可能性が隠れているのかもしれません。

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2. 「モノ」が人を「環境」に変える—対人関係の難しさを解決するメカニズム

そもそも、なぜ私たちは他者との接触を困難に感じることがあるのでしょうか。その根本原因は、相手がもたらす予測不可能性にあります。評価や期待をはらんだ「視線」、次に何が起こるかわからない「行動」、言葉や表情に込められた過剰な「意味」、そして意思を持つ存在同士がぶつかる「主体性の衝突」。特にASD傾向のある人にとって、他者と関わることは、これら複数の変数が一気に自分に流れ込んでくるような、圧倒的な体験になり得ます。

しかし、そこに「モノ」が介在すると、この構造は劇的に変わります。「モノ」は、予測不可能で意図を持った「他者」の性質を“減衰”させ、もっとシンプルで扱いやすい存在へと変換するフィルターの役割を果たします。つまり、視線が持つ評価性、言葉が持つ多義性、行動が持つ予測不可能性といった、生身の他者が放つノイズを「モノ」が吸収し、フィルタリングするのです。その結果、生身の他者は、調整可能で安全な「環境」へと姿を変えるのです。

「もの」を介すると他者接触が可能になるのは、 他者が〈直接の主体〉ではなく〈調整可能な環境〉へと変換されるから

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3. 「意味」から「感覚」へ—「モノ」が作る安全なコミュニケーション空間

セクション2で見たように、他者との関わりは予測不能な変数の洪水になりがちです。では、「モノ」を介した接触は、この問題をどう解決するのでしょうか。その鍵は、コミュニケーションの舞台そのものを変えてしまう点にあります。

通常の接触が、相手の意図を読み解き、評価し合う「視線・言語・評価」といった**〈意味の空間〉で行われるのに対し、「モノ」を介した接触は、スーツの締め付け具合や触れる時間といった物理的な条件が支配する「圧・距離・時間」の〈感覚の空間〉**へと移行します。

この移行により、コミュニケーションは「解釈」の応酬という終わりなきゲームから解放されます。そこでは、言葉の裏を読んだり、相手の機嫌を伺ったりする必要はありません。ただ純粋な「感覚」のやり取りが成立するため、圧倒的な安全性が生まれるのです。

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4. 誰も「主体」でいなくなる—「モノ」がもたらす究極の安心感

通常の対人関係には、常に「主体同士の正面衝突」という緊張がつきまといます。自分も相手も意思を持った主体であるため、そこには支配やコントロール、期待といった力学がどうしても発生してしまいます。

ところが、「モノ」が間に入ると、この構造は根本から変わります。ここでは、主体性の一部が意図的に「モノ」へと委ねられます。それにより、自分は完全な行為主体であるという重圧から解放され、相手もまた生身の他者ではなく「モノの使い手」という定義された役割へと移行します。その結果、**「誰も完全な主体でいなくなる」**という特殊な状態が生まれるのです。

この「主体性の希薄化」は、どちらかが一方的に支配したり依存したりする関係とは全く異なります。それは、お互いが過剰な自己を主張することなく存在できる、安全で穏やかな中間状態を生み出すのです。

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5. それは「倒錯」ではなく「技術」—関係を可能にするための洗練された戦略

フェティッシュの実践を理解する上で最も重要なのは、欲望が主役ではないという点です。むしろ欲望は、その下に隠された「神経学的・感覚的な安定化」という土台の上に、いわば「乗っている」に過ぎません。外部からは性的倒錯に見える行為の内側では、「刺激を減らす」「境界を明確にする」「行為を定型化する」といった、関係性を維持するための高度に洗練された自己調整が行われているのです。

したがって、フェティッシュとは**「未制度化の対人調整技術」**と捉えることができます。それは、既存のコミュニケーションの作法ではうまく関係を結べない人々が、自分たちのために編み出した独自の技術なのです。

もし、この「モノ」という調整手段を取り上げてしまったら何が起こるでしょうか。他者は再び、意味と視線をまとった剥き出しの存在として現れます。調整手段を失った彼らにとって、それは生理的に持続不可能な状態です。結果として、**「『人と関わりたい』という欲求ごと、消失する」**のです。これは怠惰でも逃避でもなく、生理的に持続不能だからです。

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結論:あなたにとっての「モノ」とは?

「フェティッシュ」というレッテルを貼られがちな行為は、その実、世界との関わり方、他者とのつながり方を見つけ出すための、深く人間的な試みである可能性を秘めています。「モノ」は他者性を弱め、関係を感覚化し、主体性を分散させることで、安全なコミュニケーション空間を作り出す触媒でした。

これはラバースーツに限った話ではありません。スマートフォン、ヘッドフォン、さらにはファッションに至るまで、私たちは常に「モノ」を介して社会との距離を測り、対人関係のOSを書き換えているのかもしれません。あなたの世界との間に、どんな「モノ」がありますか?