SMというと、日本ではあまりにもイメージができあがりすぎてしまっている。それというのも、SMには当事者が最低2名必要だからだ。Sの人とMの人。当事者が複数いるとなると、当然コミュニケーションが発生する。そのコミュニケーションが極度に形式化してしまっていることが、SMイメージの普及によい意味でも悪い意味でも、貢献しているように思われる。
それに対して、フェティシズム、これはまずもってそれって何、ということへの解説から入らなければならない。それほどまでに、フェティシズムという述語は一般にはなじみがない。
SMが、変態的なセックスから哲学的対話行為まで、あらゆるラベルを貼られているのに対し、フェティシズムはまだ、それが何となく変態の一ジャンルに属することは分かるけれども、その実態について詳しく考えられた形跡は、この日本では、90年代のAZZLOの活動をおいて他にはない。
Alt-fetish.comとしては、フェティシズムとはなにか、それによって人は何を実現できるのか、コレをもっぱら深く考えてみたい。
SMが、気恥ずかしくなるような陳腐化したコミュニケーションに勢いを得て、広く普及した。しかしフェティシズムにおいてそもそもコミュニケーションは成り立つのか。
答えは、成り立たない。なぜなら、フェティシズムは、もっぱらひとりの当事者内部における、心理的な運動のことだからだ。ひとりの人間が、ラバーやレザー、マスク、グローブ、ブーツを身に着けることで、普段とは違う非日常状態へと自分を置く。そこがフェティシズムの出発点である。そこでは、繰り返しになるが、ひとりであることが重要なのだ。
これらのアイテムは、自分の容姿をまったく異なった外観にしてしまうことはもとより、皮膚感覚に対しても、著しく普段とは異なる状態をもたらす。そして、外部感覚を閉ざすことにより、ほかの人間への精神的排他作用、社会からの隔絶感を高める。強調された孤独感がフェティシズムの欠かせない要件となる。
この夏の暑い炎天下に、ラバーを着て外に立ってみる。汗がボディースーツの内面を、体液のように満たしはじめる。すべての袖口から、まるでゆるい水道の蛇口のように汗が滴下する。
ボディスーツのなかにいるのは、相変わらず生身の人間である。ガスマスクを付けていれば、自分の呼吸音が強調され、生きていることを強く体感できる。
完全に閉ざされた内部空間が、衣服によって実現されるというのは、宇宙服とか、SF映画の世界くらいだ。凄く非日常的なこの空間、この孤独のなかで人は、ほかの状況では得ることの出来ない、希有な嗜好の場、哲学の契機を獲得できることに気がつく。
SMのような激しさ、興奮はないし、痛みも、痕跡も残らない。しかしフェティッシュ・プレイにおいては、精神の葛藤はより、深いものとなる。
市川哲也
Alt-fetish.com
“SMとフェティシズムの違い” への1件のフィードバック
コメントは停止中です。
「ひとりであることが重要なのだ。」フェティシズム論としては、凄く良い切り口ですね。引用させていただきました。