ブログとポッドキャストが変えるぼくたちの生と死

 奥山貴宏さんというライター、いや、作家が今年の4月17日になくなっていたことは寡聞にして知らなかったが、この人すごい。土曜日に、NHKのETV特集でこの人のドキュメンタリーをやっていて知った。
 この人は私とたぶん同じ歳で、2年前に肺ガンになり、余命2年と宣告を受けた。その後、ブログをはじめて、死の直前までブログを続けていた。イヤー、32歳っていろんな人がでてきたなー。渋谷の社長、藤田さん、同じくホリエモン、そして奥山さん。そして私。あっ、すみません。なんでもないっす。まあ、何となく焦ってこんな本を買ってしまった私(どんどん藁ってやってください。このブログのカテゴリーは、「コメディー」ですから、もはや)。
 さて、本筋に。
 奥山さんの場合は、ブログがあったから、ひとりの作家の死としてはおそらく有史以来はじめて、見ず知らずの人たち(読者)がまるで彼を身内のように思い、その死をリアルタイムで悼んだ。コメントの中で、他人で面識もないのにもかかわらず、行間から伝わる彼の衰弱を読みとり、辛くなったというのがあった。
 私も彼がやせ細る様子を見て、3年前に他界した父、その死の直前の様子などを思い出して非常につらくなってしまった。彼が亡くなる直前の数ヶ月間は、私は胸がいつも何となく重かった(結構物理的に重いと感じるほどの重さ)。その重さがまたぶり返した。
 私は父が絶命するその瞬間、何をやっていたかというと、家庭用のデジタルビデオカメラで彼を撮影していた。だから息を引き取る文字通りその瞬間は、モニターを通して見ていた。正直、直視できなかった。病室はほの暗く、モニターはかすかにしか映らないのが幸いだった。父の死───その体験のインパクトの大きさといったらない。いまだにその時に撮った死の瞬間のVは観られない、ひ弱な私。
 ブログじゃないけれども、父も物書きとしてあれこれ書いていたので、奥山さんと父がよけいに重なるのである。物書きは(もちろん私もそうだけれども)、書くことによって自分から一時自由になれるところがある。書いていることで救われるというか。無になれるというか。奥山さんのブログを読むと、ゲラ(校正刷り)が重たくて持てないという記述があるが死ぬ直前の人というのは、紙一枚、かざして読むこともできないのである。父も死ぬ直前は、あれほど必死に読んできた校正刷りを、もはや持つこともできなくなった。校正を持てない物書き───まさに末期の象徴的な光景だ。
 ブログを人々が書くようになって、すごい時代だと思う。エライ人、特別な人なら、そりゃあリアルなドキュメンタリーもテレビ局が入って作るんだろうけれども、そうじゃない、市井の人、日常に生きるなんの変哲もない無名の人も、自分のドキュメンタリーを、ウェブ上にどんどん残している。
 ほとんど読んでも意味のないものなんだけれども、ブログは。しかし、奥山さんみたいに、たくさんの人に「死」というものを突きつけることで、人が「死」について考えるより多くの機会をもたらしうる、そうした効果は評価すべきだろう。
 奥山さんの場合はまわりに編集者や映像プロデューサーなどが登場して、彼を記録した。死の直前は口述筆記となったが、これは編集者がやっていた。知人や親類に、ブログをやっている人がいたら、ぜひたがいに万が一の時はブログを更新し続けようと確認すべきだと思った。
 いざ、親しい人間が死ぬとなると、意外にまわりの人間にできることは限られてくる。本人の病気のコントロールは病院がするし、励ますといった精神的ケアも相手が大の大人、それも物書きのように達観したところのある人となれば、言葉の威力も限定的だ。陳腐なことを言えば逆に傷つける結果を招く。本人も死ぬことを分かっている場合には、まわりの者はできるだけ平静に、これまで通りに接することが一番だと思う。本人が死に行くからと言って、こちらが態度を変えるのが一番よくない。あと、本人には「死」とか、病気の進行についての話題はタブーだ。死が近づけば近づくほど、本人の中で死にたくないという感情が強くなる。死ぬことは忘れたいのである。だから、死ぬとか、そういう言葉は完全タブーとなる。私たちまわりの者は、とにかくなにも変わらない、「終わらない日常」を演出することが本人にとってはモルヒネに次ぐクスリとなる。奥山さんも使っていたけれども、末期ガン患者にはモルヒネが投与される。ほとんど苦しむことなく死ぬのである。
 記録し、ブログに更新するという作業はきわめて地味だし、毎日そんなに「コト」が起こるはずもない。しかしそれを続けていけば、人はいつか必ず死ぬから、必ず、何も起こらない日常でさえ、ドラマになりうる日がやってくる。最末期時は日常そのものがもはや非日常となってしまう(死ぬという日常を糊塗して、それがまるでないかのように日常を装うため)。
 今後、ポッドキャストなどがでてきてしまった以上、ポスト奥山はDJ技術も持っていないとダメとなる。技術の進展とともに、どんどんメディアリテラシーの作法は高度化を遂げる。
 ネットの時代に生きているということをあらためて実感した、そんな私の「奥山体験」である。
ひよわな市川哲也
Alt-fetish.com
info@alt-fetish.com

「ブログとポッドキャストが変えるぼくたちの生と死」への3件のフィードバック

  1.  お久しぶりです、市川さん。このエントリーもいつものように「考えさせられます」ね、、。
     ところで話はガラリと変わりますが市川さんは「関心空間」っていうサイトご存じですか?
     このサイトへの登録者が自分でキーワードを決めてコメントをアップ、そしてそれを集積していきながら大規模なデータベースを作るって感じのものです。
     実は最近、chikaもこの「関心空間」にはまってしまって、ついさっきとうとう「Alt-fetish」をキーワード登録してしまいました。
     内容は完全にAlt-fetishのPRなので、あちらの読者にはchikaってばAlt-fetishの回し者のように思われているかも知れませんね(笑)。
     ・・・ですがもし内容に不備があれば問題ですので、一度、チェックしてやって下さい。記事の編集は簡単に出来るようなので、、。
     下は、当該キーワードのアドレスです。
    http://www.kanshin.com/?mode=keyword&id=774634

  2. chikaさん、ありがとうございます! 素晴らしい説明文で感動しました。ちょっと照れくさいような……。ご期待に添えるよう、今後もますますパワーアップしてがんばります。よろしくおねがいします。

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