学生時代に卒論がニーチェだったので詳しい(嘘です、ドイツ語原点の引用箇所の訳出で死にそうになったトラウマしかなく、詳しく思い出せません!w)のですが、今「道徳」が問題になっています。道徳教育を強化して「美しい日本を作る」政府与党の思惑を左派がディスっています。道徳の重要性を振りかざす政治家も、それをディスる左派も、ニーチェから見たら、みっともない連中だと一蹴することでしょう。
そもそもニーチェに言わせると、道徳というのは、「金持ち」への怨嗟を何とか収めるために、むしろ金持ちより自分たちが優位に立つために、キリスト教が作り出したファンタジーなのです。その起源は聖書に書いてある。聖書では金持ち(および女)は徹底的にディスられている。金持ちは、天国に行けないし、詳しく思い出せないけど、女性蔑視的なことも書いてあります。金持ちは天国に行けない、自分たち(弱者で貧者)こそが、天国に行ける、その論拠こそルサンチマンであり、道徳と呼ばれる物の起源なのでした。
要するに聖書は、非モテの貧乏人(社会の支配階級に怨嗟をいだかざるをえないひとたち)が読んでスッキリするための精神的なよりどころだったわけです。その結果、人類史上類を見ない、大ベストセラーになりました。
ニーチェの「お言葉」で有名なものに、力への意思というのがあります。分かりやすくいうと、これは虎の威を借る狐、長いものに巻かれろ、同調圧力、こういったものに近いです。弱者の生存戦略として、自分が残念な境遇に置かれたり、惨めな経験をしたときに、「道徳」とか、「常識」を振りかざしてわーわーわめく態度。ドヤ顔で上から目線で説教するが、その説教の論拠は本件とは無関係な道徳や世間の常識の話。これが力への意思です。人間に備わっている、本能的な機能として、単に自分が惨めなだけなのを、それだけだと心が折れてしまうため、取り急ぎ手っ取り早く知っている大きな物語を持ち出して自分の不利な形勢を逆転したい、意思。
具体例を一個出してみましょう。先日台風で屋根の一部が飛んだので、補修をはじめました。夜6時頃に、工事を始めたら隣のばあさんが飛んできて、うるさい、何時だと思っているんだ、どんだけ非常識なんだ! と怒鳴りました。
ばあさんは、平和で穏やかな夕食を、突然工事の音でぶちこわしにされた、つまり自分の存在がないがしろにされ、不快を被ったわけです。
だったら、ばあさんは私に、日も暮れているし、夕食静かに食べたいから、工事を止めてくれと言えばよいわけです。もちろん止めます。しかし、ばあさんの力への意思が、私を非常識呼ばわりしました。常識をもちだす必要のない場面です。もはや世代間格差のために共有などおよそあり得ない「常識」を私が「もっていない」という訴え。単なる「切れたばばあの悪口」にしか聞こえず、説得力のかけらもありません。(あとで、お菓子を持って丁寧に謝りに行ったら要らないわよ、あんたみたいな非常識な人間は云々、このあいだだって(別の住民の所業を私のせいにして)したでしょ!とディスリが止む気配がないので(後日の裁判上の請求のために)録音録画して退散しました。
裁判でも、「非常識」を理由に人が断罪されたり、証拠として常識が持ち出されることはありません(それどころか、相当程度、国民は国のために受忍しろとの判例があとをたちません)。
さて、ニーチェの考え方には、「畜群本能」というのもあります。畜群は耳慣れない言葉でしょうけれども、特定のイデオロギー(デモクラシーなど)に洗脳されて思考停止状態に陥り、そのイデオロギーの奴隷と堕した人たちの様子です。
ニーチェの創出した概念、ルサンチマンにせよ、力への意思にせよ、畜群本能にせよ、私だって、誰だって、少なからずもっているわけです。問題になるのは、ニーチェによって相対化されたにもかかわらず、金科玉条のように絶対的になにかのイデオロギーを奉り、わーわー騒ぐ人です。ニーチェに言わせれば、金持ちとか、本当に力のあるいわゆる超人は、そんなことでわーわー騒いだりしないと。みっともないよ、と。
みっともないことにならないよう、お口にチャック、しないとね!
それで、じゃあ、現代に生きる虐げられた悲しい私たちはどうやったらいいんでしょうか。どう、生を支えたらいいんでしょうか?
私たちは子供のころからずっと「大人」はかくあるべきというイメージをもって育ちます。ところが、平成の長引く不況とか、格差の拡大の影響で、理不尽な理由からつらい立場に置かれたままの人生を生きざるを得ない人が増えているように感じます。
すると、自己イメージの理想と現実のギャップが広がり、焦燥感とか、満たされなさ、不幸感となって気持ちをむしばむこともあるでしょう。そのときに、ニーチェが指摘したような残念なものにすがるのではなくて、そうではなくてどうしたらいいのか。私の一つのヒントは「創作」です。
フェチな格好をして写真を撮り、SNSにアップする。詩歌をたしなむ。文章を書く(ただし排外的なものだったり、既存のイデオロギーには関係ないもの)とか。自分の心の中から出てきたことを素直に詩歌にしたためて継続的に発表していれば、きっと誰かの心に届くと思います。受け手はそれで励まされることもあるかもしれません。