個性はなにを、ではなくどう、表現するか

 アニメ監督の今敏さんがテレビで「個性的というのは、何を表現するかではなく、表現するその仕方にある」といっていた。
 これはなるほどと思った。
 私は長年、「人間の陳腐さとはなにか」これがずっと気にかかっている。陳腐な人間というのに私は敏感な方である。陳腐さとは、個性的というのとは対極にある概念だ。ひどい場合には、気持ち悪さを喚起する。私はわりと陳腐な人間はキャンパスに少ない方の大学を卒業後に就職したメーカーで、陳腐なオフィスや工場に、陳腐な人間が大勢いるのを発見して驚愕した。「キモい(気持ち悪い)」と思った。連中のキモさの根元は、やってること、紋切り型のしゃべり、リアクション、人生やジェンダーへの理解、風貌、そういうところにあった。全部、陳腐だった。キモさを催させる原因は、彼らの陳腐さにあったのだ。
 陳腐さは私のなかにも潜んでいる。ラバーキャットスーツを着て、それ自体十分個性的なはずなのに、撮影してできあがってくる写真には、「陳腐さ」がただよっている。なんなんだろうこれは、と長年思っていたのだが、今さんのいう言葉で分かった。
 ラバーキャットスーツが個性的だから、撮った写真も個性的になると思っていた私が間違いだった。やはり、何を撮ってもその撮り方、つまり、どう撮るか、いかに撮るかこそ、個性が発揮される唯一の場なのだ。ラバーを撮っても、撮り方が凡庸ならば、なんの個性も表現したことにはならない。キモい写真しかできない。
 天才とされる写真家が選ぶ被写体は、定年退職したオッサンが趣味ではじめる写真の被写体と何ら変わらない。花とか、風景とか。
 どう、表現するかって、ホント大事だな。結局いい作品というのは陳腐ではない作品なのであって、それは個性的な作品と同じだ。私は陳腐な人生を激しく嫌悪しているからこそしているあれこれの活動がある。それだけに、ラバーキャットスーツを「陳腐に」撮っていた自分が情けなく悔やまれる。これからはがんばりたい。
 はは。どう、撮るか、だって。人生の暇つぶしがまたひとつできて幸せな気分。だってポーズ。照明。場面。どれひとつとってもこれという解はないんだから。
 私は撮る前にいってしまうのがいま最大の課題だ。しかし今日こそはがんばるぞ。いかないで撮る。その秘策を編み出した。それは、ラバーキャットスーツを着ることを、「発汗運動」ととらえることだ。運動ならば、チンポの出る幕はない。撮影という目的を果たし、すがすがしい汗をかけば、身体の老廃物も出て、すっきりとするだろう。それでもし余力があれば……。
Text by Tetsuya Ichikawa
Alt-fetish.com
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