もっとも優れたフェティシズムとは
フェティシズムは人間に与えられた最高の付加価値だ。ただし彼がフェティシストであることが条件だが。
「資源」とはおよそこの世に存在するすべてのものの集合体であり、「欲求」とは、人が欲していながら欠乏しているものの集合体である。そして「財貨」とは願望され、かつ存在するもののことを言う。つまり財貨とは欲求と資源の重なり合うところに生ずるものである。
願望されない資源、言い換えれば、欲望を充足したり、欲求を取り除く力を持たない資源は財貨と呼ぶことは出来ない。
『マンデルの経済学入門』より
資源は素っ裸の人間(モデル)。これにブーツを着せ、キャットスーツを身につけさせ、ハードな革のグローブをはめさせる。そして一流フォトグラファーにクールなシューティングをする。フェティッシュな「財貨」の出来上がりというわけだ。かつてこれほどまでに単純で、崇高な経済活動があっただろうか? ねえ?コロンビア大学のマンデル教授。
つまり言いたいのはこういうこと。フェティシズムを語るなら、それは資本主義的でなければならない。それ以外の「語り」は空虚だ。そのイメージ、ファンタジーには「価値」があるのかないのか。おそらく多くのでまわっているフェティッシュイメージは、「価値」はない。あっても少し。だから、我々フェティシストの欲求は充足するどころか、深まるばかり。
オルタ・フェティッシュは金がない。だから、資源に付加価値を発生させる投資が出来ずにいる。難題だが工夫のし甲斐がある。もちろん妥協はしない。なぜなら我々は、真のフェティシストのための「財貨」を作り出すことだけが目的だから! 人々から願望されるイメージのなんと崇高でパワフルなことか。
さて、フェティッシュの価値は物体にこめられた「ストーリー」のことだと思う。フェティシズムとはもともと「崇物信仰」のことである。ものに何らかの価値を見出して、それを「オガメタテマツル」。そもそも信仰とはある物語への自己同化であり、憧れだ。そこで、資源を財貨に変えるための、フェティシズムの物語が、フェティッシュなものの魅力の本質をなすことが分かる。
フェティッシュな物語は、たとえばこういうことだ。ブーツをピッタリとはいた女性。彼女は非常に強く、自信を持っていて積極的な性格を持つ。彼女は世界に対して、優位にある。美しさと強さが、彼女の優位性の根元だ。そうした優位性を持つ彼女の、セックスにについての物語。男性を挑発し、じらし、思いのままにする。ときには相手を痛めつけ、自分の強さを誇示することも忘れない。こちらが束縛しようとしても、彼女には強さゆえの自由がある。実体は把握できないし、管理することなど不可能だ。なぞめいた主人公へのファンタジーはおのずと高まる。ピッタリと引き締まったブーツから、それをはく女性の物語をこのように想起することで、はじめてそのブーツは「フェティシズムの財貨」としての地位を得る。
まったく別のジャンルの例を言えば、ディズニーランドがその典型だろう。ウォルトディズニーの作り出したネズミの物語。ただのネズミのイラストに、豊かなストーリーを与えた結果、彼は多くの人の心にある種の「信仰」を作り上げることが出来た。
ストーリーを軸に、人々を楽しませ喜ばせる。私たちはフェティシストのためのストーリーを作り出したい。もちろんその物語は、「永遠に終わりのない物語」だ。2001.7.1▲ |